買い物しようと街まで~♪ 出かけた~ら~♪

大抵の人なら知っている、サザエさんの歌の冒頭(二番だったかも・・)である。

先日、なぜかこのフレーズがふと頭をよぎったとき、
「買い物」という言葉に、妙な違和感を覚えた。

こういう感覚が生じたときは、放っておかないのがukiyobanare流である。

「買い物」という言葉を、素直に捉えるならば、
熟語としての力点は「物」に置かれており、
「買われる物」あるいは「買う物」という意味であるのが本来であろう。

これは例えば、「煮物」「焼き物」がそれぞれ、「煮られた物」「焼かれた物」であり、
「乗り物」が「乗る(ための)物」、「食べ物」が「食べる(ための)物」であるのと同じである。

しかしながら、「買い物」という語が「物」を表すことは皆無といってよく、
99.999%、「買い物」とは「物を買うこと」という意味だ。

ここが奇妙なのである。

「物を乞うこと」であれば、「物乞い」という。
「人をさらうこと」であれば、「人さらい」という。

「皿を洗うこと」は「皿洗い」だし、「山に登ること」は「山登り」だし、
「虫を捕ること」は「虫捕り」だし、「物を干すこと」は「物干し」だし・・・

要するに、「物を買うこと」であれば、「物買い」というのが普通なのに、
なぜか「買い物」という。

サザエさんの歌の冒頭の違和感は、ここにある。

(ここまで書いて、サザエさんの歌の出だしは、
「お魚くわえた♪どら猫~♪」だったかもしれないと思い始めたが、
この際、もうどうでもいい)

英文法にたとえるならば、「買い物」(「物を買うこと」)とは、
すなわち“shopping”ということで、動名詞なのである。

そう考えると、似たような例が見つかった。

「書き物」とは「物を書くこと」、“writing”だ。

でも次の例が見つからない。

もっとサンプルを集めなければ、「動名詞化する『物』」について、
その法則などを探ることができないではないか。

あれこれ考えても見つからないので、
犯人は犯行現場に戻ってくる、という言葉どおりサザエさんの歌に戻ってみると・・・

財布を~忘れて~♪ 愉快~なサザ~エさん~♪

財布を忘れて・・・
財布を忘れる・・・・
「忘れ物」・・・!?

「忘れ物を取りにきました」
というときの「忘れ物」は、「忘れられた物」であり、「物」を表す。

けれども、「僕は忘れ物をした」というときは、
「物を忘れること」という意味であって、これは動名詞的用法だ。

つまり「忘れ物」というのは、中間的用法とみてよいのだろう。

「物を忘れること」という意味では、「物忘れ」という言葉もあるのだが、
これはまさに、「忘れ物」という言葉が、
完全には「物を忘れること」という意味を担い切れていない証拠ではなかろうか。

中間的存在が見つかったことで、「物」という接尾辞には、
英語の~ingのごとく、動名詞化する働きがあることに確信が持ててきた。

あと知りたいのは、その法則である。

なぜ、「物を買うこと」は「買い物」と言うのに、
「物を食べること」を「食べ物」とは言わないのか。

「物」を付けて動名詞化する例は少ないように思えるが、
それらにはどのような共通点があるのか。

(今日はいったんここまで)