「生贄 その7」(『今昔物語集』)

7.
老僧はそこまで語ると、
潰れた方の目を、懐かしそうに指で撫で、
やや沈黙があったのち、静かにまた語り始めました。

「なぜ咄嗟に自分の目を抉ってしまったのか、
そのときは理由が分かりませんでしたが、
不思議と、それほど痛みがなかったように覚えています。

そこに目玉がなくとも、涙が溢れてくるのは分かりました。

私は刀を腰に差し、犬丸の残された体の部分をかき集めると、
逃げるようにして山を下り、
麓の桜の樹の下に、埋めてあげました。

腸(はらわた)と、目玉と、髪の毛と、そして私があげた木彫りの仏様・・・
それらを丁寧に埋め、手を合わせてしばらく拝んでおりました。

ようやく東の空が明るくなり始めたころ、
私は腰を上げ、衣の待つ家へと急ぎました。

犬丸が帰ってくるのを待っているのか、
家人が門前に立っておりましたが、血まみれになった私の姿を見るや、
何やら叫んで、家の中へと駆け込んでいきました。

主とその妻、そして家人どもが、どやどやと私の周りに集まってくるまでには、
時間を要しませんでした。

柱の陰から、衣がこちらをうかがっているのにも気づきました。

私は周りを見渡しながら、威嚇するような大声で叫んだのです。

「猿共は俺が皆殺しにした。目玉のひとつはくれてやったが、惜しくはないわ。
犬丸の姿が見えないようだが、どこへ行ったのか」

言い終わるやいなや、歓声なり罵倒なり、
なんらかの反応に包まれるものと思っていたのですが、
案外なことに、周りは静まり返ったままでした。

主とその妻の方を見やりましたが、
人の感情のあらゆる要素を混ぜ合わせれば、
あのような表情が出来上がるとでもいうような、
複雑極まりない顔をしていたのが印象的でした。

静まりかえる者どもを尻目に、衣の方に近づくと、
つとめて笑顔で、「戻ったよ」と声を掛けました。

衣は表情ひとつ変えずに、奥へと下がってゆくので、
私もその後を追い、ようやく自分たちの部屋で二人きりになると、

私はさも何も知らないかのごとく、「犬丸はまだ戻らないのか」とたずねました。

衣の表情は凍りついたようで、微塵も変わりません。
そして静かに口を開きました。

「犬丸は、きっと戻りませんわ。私には分かります。
そして私も間もなく姿を消すかもしれません。
私と犬丸は、大きな罪を犯してしまったのですから。」

私は何のことか分からず問いただすと、
衣は、口元に微かな笑みを浮かべながらこう言ったのです。

「私のお腹には、犬丸の子がいます」

この地に来てから、そしてこの数日だけでも、
今まで考えてもいなかったような出来事に見舞われてきましたが、

それらも、衣のこの言葉を聞いたときの動揺に比べれば、
取るに足らぬものだと思えるほどでした。

「私たちは愛し合っていたのです」

私の動揺を見透かしたかのように、そう続けた衣の言葉が終わるか終わらぬかのうちに、
家の外へと飛び出しました。

どこをどう走ったでしょう。

頭の中がただ真っ白になり、
それであれば、自分が猿に喰われてしまってもよかったのだという自責の念と、
けれども結局、自分は何もできなかったのだという後悔と、
愛する妻に裏切られた憎しみと、

これらの負の感情をすべて背負って、
ひたすら駆けました。

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・・・・・
疲労と出血による衰弱から、
私はどこかで倒れ、そのまま気を失ったに違いありません。

どれぐらいの間倒れていたのでしょうか。
顔に当たる水しぶきの冷たさに、目を覚ましました。

見渡せば、どうやら覚えのある風景、
そうです、そこはかつてあの地に行くときに飛び込んだ滝でした。

再び、私は泣きました。

ただその涙は、さきほどまでのものとは、明らかに違っていました。

泣きながら私は、その場で刀で髪を落としました。

人間の情と欲の、かくまでの深さにすべてを諦め、
私はただ仏の弟子として、この世を終えることにしたのです」

まだ若干の寒気を含んだ風が、桜の花びらを運んできました。

その場にいた誰もが、語り終わった老僧の顔を食い入るように見つめていましたが、
その誰もが、この老僧の表情を見て、
彼が重大な何かを敢えて語り漏らしているような気がしてなりませんでした。

老僧は口の中で何やら呟くと、腰を上げ、
先ほどの風が吹いていった方へと、ゆっくりと歩き、やがて姿が見えなくなりました。

そして、彼が腰を下ろしていたところに何やら残されていたもの、
それは小さな木彫りの仏様でした。

(終)