「ゴッホとゴーギャン展」(@東京都美術館)

企画展の場合、「何を見せるか」は勿論ではあるが、「どう見せるか」が重要となる。

特に今回の「ゴッホとゴーギャン」のような、
美術好きであれば、おそらく誰もがそのストーリーを知っているようなテーマの場合、
ヘタをすれば、作品そのものの魅力を減じてしまう可能性もある。

果たして「ゴッホとゴーギャン」という、この直球ど真ん中な企画をどう料理しているのか、
僕の興味はこの一点だった。

誰もが思いつく安易な企画としては、
この二人の天才画家の作風の違いをクローズアップし、

共同生活から別離までをドラマチックに飾り立て、
そしてゴッホの自殺を経て、ゴーギャンの遁世で幕を閉じるという、
いわば劇場型ともいえるものであろう。

だがそんなありきたりな筋立てでは、
目の肥えた美術好きを満足させることはできないことは容易に想像がつくし、
さすがに今回の企画も、そうではなかった。

あくまでも僕個人の感想であるが、
今回の展示のテーマは「不在」だと思う。

不在とは存在しないことであるが、
最初から無なのではなく、存在があるからこそ成り立つものであって、
つまり、不在の裏には常に存在がある。

画家が目を使って絵を描く以上、
そこには常に「存在」がある。静物画しかり、人物画しかり。

ゴッホとゴーギャンもまた、その例外ではなく、
むしろ、この二人ほど強烈に存在を捉えた画家は他にいないかもしれない、
と思わせるほどである。

けれど今回の展示を見てから、その考えは大きく揺らいだ。

この二人の眼は、明らかに存在を通り越して、その裏側にある不在を見ている。

もしくはその逆で、不在というフィルターを通すことで、強烈な存在を浮かび上がらせている。

そしてそれはなぜなのか。

そのヒントはもしかしたら、この類稀なる二人の個性が、
まるで直線と放物線が1点で接し、そして離れていくような、
あの出会いと別れ、そしてその追憶の中にあるのではなかっただろうか。

たとえば、このゴーギャンの「靴」。

ゴッホ「靴」

靴という存在を通して浮かび上がるのは、その持ち主の不在である。

そしてそれが直接的表現となったのが、この「ゴーギャンの椅子」。

ゴッホ「ゴーギャンの椅子」

これはもはや単なる椅子ではなく、
ゴッホにとってはゴーギャンその人だったと言ってもいい。

この椅子が描く緩やかなカーブには、まるで生き物のような温かみがあり、
そして、そこに誰かが座ることを拒むように置かれた、蝋燭と本。

つまりそこにゴーギャンが座る必要性はもはやなく、
不在と存在が混交し具現化したのが、この椅子だった。

そしてもうひとつ、ゴーギャンとの別離のあとに描かれた「タマネギの皿のある静物」。

ゴッホ「タマネギの皿のある静物」

ここに描かれているのは、セザンヌのあの林檎のような、
そのもので完結した「存在感」ではない。

タマネギが生き物のように寄り添うのは、
本でありパイプであり手紙であり、
クローズアップされているのは、人物の「不在」である。

球形と角型の静物を配置することで絶妙なバランスを保つ見た目や、明るい色彩とは裏腹に、
不在に対する不安のようなものが、観る側の胸に突き刺さってくる。

さて、
ゴッホが対象と対峙することで存在とは何かを問うたのに対し、
ゴーギャンのベクトルは、常に内向きだった。

だから、ゴーギャンの視線はひとつのオブジェに対して向けられるのではなく、
そこにある空気というか気配に浸りながら、
存在とは何かを、自身に問いかけるような作品が多い。

「鵞鳥の戯れ」。

ゴーギャン「鵞鳥の戯れ」

そして、「マルティニク島の風景」。

ゴーギャン「マルティニク島の風景」

画面一杯に拡がる、エーテルのような気体に浸った気分になる。

それはゴーギャンの人生最後の地である、タヒチへ渡ってからも同様だった。

「川辺の女」。

ゴーギャン「川辺の女」

真ん中にそびえる巨大な樹木が、自然の力を鼓舞するのと対照的に、
人物は模様と化しており、

やはり一般的に言われているように、ゴーギャンはこの地で、
人間という「存在」に対する答えを、見つけかけていたに違いない。

けれどゴーギャンは、完全に悟りきっていたわけではなかった。

この地に渡ってきてさえも、あのゴッホの不在と存在とが、
強く心を往き来していたに違いない。

その証拠に、タヒチにはない「ひまわり」をわざわざフランスから取り寄せ、
そしてそれを「椅子」に乗せて描くことで、
ゴッホに対する追憶を、完成させたのであった。

死の二年前に描かれた、「肘掛け椅子のひまわり」。

ゴーギャン「肘掛け椅子のひまわり」

あのゴッホの「椅子」と、このゴーギャンの「椅子」を見比べ、
それぞれの絵に込められた想いと、そこに見え隠れする「存在」と「不在」を思うとき、

この二人の天才の数奇な生き様と、運命の戯れに、
胸の内が熱くなることを禁じ得ないのである。