日本の古典和歌の特徴は、「四季」の歌の豊富さにあると言ってもよい。

当然ながら、恋の歌も多いには多いが、
恋愛感情の表出は、古今東西の歌謡・文学には普遍的なものであって、
特に珍しいというわけではない。

やはり日本という風土であるからこそ誕生し、
洗練されてきた「四季」の歌をこそ楽しみたい。

季節には変わり目(境界点)があるがゆえに、
それぞれの季節が実感されるわけで、
その境界点の中でも、一番顕著であるものは、
冬と春、すなわち大晦日から元旦にかけてのものだろう。

記念すべき最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の冒頭の春の歌が、
まだ年が明けていないのに、先に立春が来てしまったという暦と季節のズレ、
つまり季節の境界についての機知に富んだ一首であることはよく知られている。

年の内に春は来にけり 一年を去年とや言はん 今年とや言はん(在原元方)

この新年の歌に対する、大晦日の歌はないのだろうか、
とふと疑問に思った。

春の歌の冒頭に対し、冬の歌の末尾を飾るものとして、
季節のズレと境界線を意識した、既知に富んだ歌。

それは八代集の中ではなく、
九番目の勅撰和歌集である「新勅撰和歌集」の中にあった。

「新勅撰和歌集」は藤原定家の撰になるものである。

八代集の最後を飾る「新古今和歌集」にも、
定家は撰者として参加したわけであるが、
複数の中の一人であり、自分の意のままにできる立場でもなかった。

今度は念願かなった「唯一」の撰者という立場であり、
「新勅撰和歌集」という名前からも、定家の意気込みは知れるのである。

その巻第六、冬の歌の末尾が、貫之の以下の歌だ。

降る雪を空に幣とぞ手向けつる 春のさかひに年の越ゆれば

まさに、古今集冒頭の元方の歌に呼応する歌ではなかろうか。

定家は明らかに、故意に貫之のこの歌を冬の最後に配置し、
古今和歌集から続く勅撰和歌集の四季の伝統を、
この歌で受け止めようとしていたに違いない。

この貫之の歌のあとに、もう一度元方の歌に戻ってみれば、
四季が大きくループするのが実感できる。

2016年の大晦日は、紅白歌合戦でもレコード大賞でもなく、
新勅撰和歌集(冬)⇒古今和歌集(春)という、
季節のリレーを味わうことで、静かに暮れてゆく。