「ティツィアーノとヴェネツィア派展」(@東京都美術館)

上野公園では、早くも花見を案内する横断幕が掲げられていたが、
花の方はまだまだ咲く様子もなく。

けれど、知らぬ間に咲いて、知らぬ間に散ってゆくのが桜だから、
来週あたりには、公園の色彩も一変しているのだと思う。

とにかく人の心だけは、一足先に春になったような公園を横切り、
お馴染みの東京都美術館へ。

以前にこのブログで紹介したものもいくつかあったが、
今回あらためて注目したのは、この3作品。

・「教皇パウルス3世の肖像」(ティツィアーノ)

「教皇パウルス3世の肖像」(ティツィアーノ)

今回のティツィアーノ作品では、これがズバ抜けていると思う。
真に優れた人物画というのは、単にモデル本人に似ているだけではなく、
その人物の内面や性格を浮き彫りにするものだということが、
この絵を見ればよく分かる。

顔や手に刻まれた皺、自身と警戒心に満ちたような目元、
そして神経質に開かれ、小指が折られた右手。

これらすべてが、
宗教と政治の狭間で、世知に長けた、というよりも狡猾に生き抜いてきたのであろう、
教皇の内面を残酷なまでに表現している。

・「フローラ」(ティツィアーノ)

「フローラ」(ティツィアーノ)

ティツィアーノ初期の傑作と言われる本作も、
さすがに教皇と比べられると分が悪い。

色使い、肌の質感、そして安定した三角形の構図など、
優れた点が多いには違いないが、
惜しむらくは、女性の表情、特に目が何も語ってこないことだ。

この目は、もしかしたら後から描き直したのではないかと思えるぐらい不自然で、
(おそらく、両眼の視線方向が微妙にずれている)
それが、人物画に必要な決定的な深みを欠いてしまっているのである。

だから、この絵を見ても「キレイね」、という以上の感想は湧いてこず、
教皇を眺め、教皇からも眺められているようなあの不思議な感覚は、
残念ながらここにはない。

・「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ」(ヴェロネーゼ)

「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ」(ヴェロネーゼ)

今回の最大の収穫は、主役のティツィアーノではなく、
ティツィアーノ、ティントレットと共に16世紀ヴェネツィア絵画を代表する、
ヴェロネーゼのこの作品だった。

まずは誰もが目を奪われるであろう、
黄金と朱、そして青による豪華な色彩感覚。

さらに構図としては、イエスの頭を画面中央に配し、
それを右下から見上げる幼いヨハネの視線に対し、
二人の女性の視線が左上からクロスする。

そして奥の女性の左肩の柔らかな曲線と、
手前の女性の右腕のカーブが、
鑑賞者の視線を自然と右下に誘導する。

このままでは右下に重心が集まりすぎるのだが、
手前の女性の後ろ姿を、やや誇張気味に大きく描くことで、
絶妙にバランスを保っているのだ。

なんだろう、ここまで大胆かつ豪放でありながら、
衣服の襞や髪の流れなどのディテールも疎かにせず、
しかも優美で上品な佇まいがある。

このような、あらゆる要素が一枚に同居し、
それらが打消し合うことなく、互いに共鳴していることが、
傑作の傑作たる所以であり、それを鑑賞する楽しみでもある。

最後に余談を。

このブログでもそうなのだが、
教科書にせよ画集にせよ、気を付けねばならないことは、
良い作品しか紹介されないことにある。

良い絵だけ見ていても、絵の良さというのは理解できない。

例えば、いくら僕がここである作品の良さを説明しても、
「プロの画家が描くんだから当たり前じゃないの?」
という意見があってもおかしくはない。
(僕の説明が拙い可能性はあるが)

けれど、たとえば今回の展覧会に足を運んでみれば分かるのだが、
展示されている50枚以上の絵画のほとんどは、「平凡」である。

もちろんヘタとは言わないが、
ここで敢えて紹介しようという気にはならないような作品が大部分である。

玉石混淆の中から、いかに自分にとっての「玉」を見抜くか。

それがすなわち、絵を鑑賞することの意味であり価値であり、
そのためには、多くの「石」をもまた見なくてはならないと思うのである。