ランスは、フランスのシャンパーニュ地方の中心都市。

そしてランスといえば、
もちろんシャンパン、ノードルダム大聖堂、そして藤田嗣治。

(ちなみに、藤田嗣治なのかレオナール・フジタなのかという、
割とデリケートな問題はあるが、
僕は専門家ではないので、ここでは敢えて気にしないで使うことにする。)

正直、あまり期待はしていなかったのだが、
観ているうちに惹き込まれていくという、
なかなか味わい深い展覧会だった。

いつも通り、気になった作品を紹介しよう。

・「サテュロス」(ヤーコブ・ヨルダーンス?)

「サテュロス」(ヤーコブ・ヨルダーンス)

前半は退屈な作品が多かったけれど、
これはちょっと面白い。

表情がなかなかリアルで、
肖像画ではこのような表現は見られないから、かえって新鮮である。

・「マラーの死」(ダヴィッド)

「マラーの死」(ダヴィッド)

前半のヤマ場はこれ。

さすがダヴィッドととも言える一枚。

画面上半分の黒いスペースの使い方が贅沢で、
人物のポーズとも相俟って、
死がずっしりと乗っている感覚をうまく表現している。

右手に持ったペンと、そのすぐ近くに置かれたナイフの対比も、
定石ながら効果的である。

・「若いアフリカの女と子供」(レオナール・フジタ)

「若いアフリカの女と子供」(レオナール・フジタ)

そしてこの展覧会の後半は、フジタ一色になる。

しかしここに並べられているのは、
我々が見慣れた、あの「乳白色のフジタ」ではなく、

敢えて異質なものを描くことで、
異質な日本人としての自らが、
フランスの生活に溶け込めそうで溶け込めないさまを、
表しているような気がしてならない。

それはまさに、「藤田」と「フジタ」の間で揺れる二人の自分であり、
その苦悩は画家本人でなければ、とても分からないだろう。

ありのままの人間を描くことによって、
文化の違いを乗り越えようとするパワーがここにはある。

黒い肌と逞しい体、そして野性的な眼差し。
西洋絵画の伝統からはかけ離れた女性を敢えて描くことで、
人間の本質を素直に表現したのだろう。

平面的に描かれた、真ん中の女性の顔が、
立体的に浮かび上がる全体の構図に、絶妙なアクセントを付けている。

この作品が、今回の展覧会中の個人的ベストである。

・「好色」(レオナール・フジタ)

「好色」(レオナール・フジタ)

人間の本質は、別にきれいな部分だけじゃない。

醜いもの、下司なものも、また人間の性なのであり、
それを文字通り画面一杯に表現したのが、この絵だろう。

各人物の、特に目に注目してみると、
もはやヒトというよりも爬虫類か何かに近い。

それぞれの視線のベクトルをわざと少しずつずらしながら、
でも目の位置のラインは揃えることで、
生理的な嫌悪感を生み出している。

ただ、ここまで徹底して醜さを押し出していながらも、
画家がそれを肯定しているだろうことは、
女の微妙な表情が語っているのではないだろうか。

見る者と見られる者、
求める者と求められる者、

どちらにもあるものは、「人間としての欲求」であり、
それを隠さずに描くことが、
フジタの晩年の一連の宗教画の世界につながっているのだと、
僕は思う。