「適者生存」というのは、
いうまでもなくダーウィンの「進化論」の核をなす考え方であるが、
それについての、いくつかの思うことを。

・「適者が生存する」のではなく、「生存したのが適者だった」ということ。

進化論というのは、その名称とは裏腹に、
未来ではなく過去の遺物(化石)をベースに成り立っているものであり、
要するに、結果論なのである。

だから、現時点において、これこれの動物は生き残るだろう、という予測はできない。
できるのは、これこれの動物が生き残った、という結果の分析である。

・そもそも、「適者」=「優者」ではない。

例えば恐竜は、現代まで生き残れなかったために、
「劣等動物」であったかのようなレッテルが貼られがちであるが、
彼らは、少なくとも我々人類よりも何十倍もの間繁栄したのである。

彼らが生き延びられなかったのは、生物として劣っていたからではないし、
環境に適合しなかったわけではない。
(誤解をしないでほしいが、彼らが2億年以上も存続したことは、
紛れもなく「適者」であったことを示している。)

ただ、地球の歴史に数回ほど生じる、「環境の初期化」ともいえるカタストロフィにより、
ゲームの舞台から退場せざるを得なくなっただけである。

・「適者」というのは、「『今』生き残っているもの」ではない。

我々はともすると、自分たちヒトのことを「適者」であると思い込みがちである。

ただ考えてみてほしい。
我々が誕生してから、まだわずか数百万年。
その間に、カタストロフィらしい事件にも遭遇していない。

つまり我々は、太古の一時の間、イクチオサウルスが栄えていたのと同じであって、
「一定期間、存在している種」であるにすぎない。

では「適者」と認定されるには、どれだけの期間存続する必要があるかといわれれば、
そこに定量的な判断基準はないわけなのだが、

現存しているものでも、多くの昆虫やカメなどの爬虫類や、
また既に滅んでしまったものでも、ヒトよりも明らかに繁栄していたものもいるので、
我々ヒトが「適者」であると認定されるのは時期尚早であろうと思われる。

むしろ、我々は自らの手で環境を改変する、「最悪の」生物である可能性もあり得る。