エゴン・シーレでも語ってみようか

エゴン・シーレでも語ってみようか
エゴン・シーレ

部屋の整頓をしていたら、隅からamazonの箱が出てきた。

何だろうと思って開けてみれば、中からはエゴン・シーレの画集が。

いつ買ったものかは記憶にないが、ページをめくってみることに。

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友情、恋愛、猜疑心、疑心暗鬼、憎悪、嫌悪、コンプレックス、警戒心・・・

ヒトと接することほど、難しいものはない。

こっちが見ているように、相手もこっちを見ているとは限らず、
親子だろうと、夫婦だろうと、恋人だろうと、他人は他人。
心と心の間は、闇ばかり。

依頼された肖像画を、現物の3割増に描いていればよかった時代は、遠い昔になり、
「きれいごと」ではなく、心のフィルターを通して人物を描いた画家は、
僕の中では3人。

ピカソ、モディリアーニ、そしてエゴン・シーレ。

三者三様、アプローチの仕方はまるで異なるが、
根底にあるのは、ヒトに対する(ひいては自分に対する)不安であることは、間違いない。

それをシーレは、ヒトを、徹底して「body」として描くことに執着した。

bodyなんだから、そこに心はない。
乱暴に言えば、ゾンビである。

bodyとしてのヒトを、映画で表現したのがロメロであれば、
絵画で表現したのが、エゴン・シーレ。

そこにはクリムトに見られるような、甘さもロマンチシズムの欠片もなく、
存在するのは肉の塊だけだ。

投げ出された肉の塊の中に、救いを見るのか、絶望を見るのか、
その判断を鑑賞者は求められるのであって、
シーレや前述の2人の作品を観る醍醐味は、そこにある。

ただそれは、もはや絵画鑑賞などという優雅なものではなく、
「生のままのヒト」を凝視することの、苦痛を伴う作業である。

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