「明暗」(夏目 漱石)

 

漱石を読み直そうプロジェクト(?)も、
一旦ここまで。

最後を飾るのは、
もちろんこの「明暗」以外にあり得ない。

漱石というと、我が国を代表する文豪、大御所という印象が強く、
老年まで活躍していたと勘違いしがちであるが、
享年50歳。

決して長い人生ではなく、
しかも作家として活動したのはわずか10年ほどに過ぎない。

その漱石最後の作品が「明暗」であり、
執筆途中に亡くなったため、未完であるのだが、

作品の出来栄えという点では、名作が多い漱石作品の中でもズバ抜けているし、
なんといっても、漱石の作家としての新たなスタイルのようなものが見られるため、

あと10年長生きしてくれていれば、
日本の文学水準はさらに向上したであろうと思われるのが、残念でならない。

新たなスタイルといったのは、人物同士の会話中に、
濃密な緊張感を持たせていること。

漱石の他の作品というのは、どこかしらに余裕があったし、
会話と地の文という比較でいえば、どちら主であるとも判じ難い。

けれども「明暗」においては、物語の展開はすべて会話が担っているといっても過言ではなく、
特に、主人公の津田の病室で、妻のお延と妹のお秀と三人での「戦い」が繰り広げられるシーンは、

人物の発する一言一言が計算され尽くされた壮絶な心理戦となっており、
日本文学史上屈指の名場面といっても過言ではなかろう。

明治の知識人として、いち早く西洋文化の洗礼をうけた漱石であったが、
会話文にここまでの密度を持たせるという手法は、

むしろ前時代の浄瑠璃のような語り文学の影響が強く、
江戸っ子としての漱石の一面が色濃く出ていると思うのであるが、どうだろうか。

この作品にはテーマがない。

器の小さな人物たちが集まって、お互いの腹を探り合い、
納得し、そしてまた疑心暗鬼になる、ただそれだけのことであるのだが、

それだけのことを、これだけの作品にしてしまう漱石という人の筆力に感服しながら、
これでしばらく漱石先生からは遠ざかろうと思う。

次の漱石の本を手に取るのは、彼の享年頃になるかもしれないし、
恋しくて、案外もっと早く戻ってくるかもしれない。。