歌論集 能楽論集

 

ここ最近、歌論の感想を立て続けに書いてきて、
一旦、その最後を飾るのが「正徹物語」。

「物語」といっても、ストーリーがあるわけではなく、
歌人・正徹が、和歌について語った歌論書ということである。

そういえばいま話題の冥王星の、最大の衛星が「カロン」。

そもそも本体の方が、
プルート(冥王)なんて名前を付けられたもんだから、
その衛星まで、三途の川の渡し守の名前を付けられてしまうという、
星にとっては風評被害もはなはだしいところであるが、

ではなぜ、ディズニーに出てくる犬も、同じくプルートなんて名前なのか、
飼い主であるミッキーさんのセンスなのか、
僕にはちょっと分からないので、詳しい人がいたらぜひ教えてもらいたい。

で、「歌論」の話。

なぜ最近、「歌論」だったのかといえば、
それは冥・・、ではなく、言葉についてあれこれと考えたいことがあって、

であれば、言葉の芸術である和歌の、
しかもそれがリアルとして捉えられていた中世に書かれた歌論書こそが、
ふさわしいと思ったからである。

読んでいて分かったことは、
定家にせよ、後鳥羽院にせよ、長明にせよ、そしてこの正徹にせよ、
一流歌人の著した歌論書というのは、評論として必ずしも優れているとはいえないということだ。

自らが伝統を背負っている以上、その伝統を覆すようなことも言えないし、
客観性を保つことが難しく、所々に歌人としての本性が現れてしまう。

この正徹などはその典型で、
自分の歌を持ち上げて、それを鼻にかけている風が、どうも気に食わないときがある。

しかし翻って考えてみると、
結局、言葉の芸術を言葉で評するものである以上、

トートロジー的な堂々巡りになることは避けられないのであって、
「幽玄とはなんぞや」と語ってみたところで、
語られる先から、それはもはや幽玄ではなくなるわけなのである。

そんな「正徹物語」であるが、歯切れ良い文章で、内容自体は分かりやすい。

了俊の言葉を紹介している一節があり、それによれば、

和歌が上達するには、まずは詠むのではなく、
歌詠み同士で集まって、和歌についての批評をするのが第一の稽古である

とのことなのだが、
要するに、腕をあげることも大事だが、まずは目利きになりなさい、ということで、
確かに、何が良くて何が悪いのが分からなければ、良いものを詠めるはずがない。

これは言い換えれば、学ぼうとする芸に対して、
まずは主観的ではなく、客観的に接しなさい、ということだ。

ただ一方では、あまり細かいことを考えずに、
初心者のころは、とにかく多くの歌を作りなさい、とも言っていて、

まぁ何が正しいのかよく分からないし、どれも正しく聞こえるというのが本音で、
いつの時代も、学ぶ方は取捨選択をしなくてはならないのである。

総じて、歌人による歌論とは、自己肯定によって書かれた、
教科書的な意味合いが強いものであった。

伝統という呪縛から解き放たれて、
言葉の本質に迫るような論が現れるのは、ずっと後の時代である。

当分の間、このジャンルに戻ってくることはないだろう。