ヴァン・クライバーンを聴いて思ったこと

ヴァン・クライバーンを聴いて思ったこと

アメリカが生んだ英雄的ピアニスト、ヴァン・クライバーン。

テキサスの田舎から、冷戦真っ只中のモスクワへ乗り込み、
フルシチョフの前でチャイコフスキーコンクールに優勝するという離れ業は、

いわゆる「アメリカン・ドリーム」という言葉以上の価値を持っていたことは間違いなく、
そしてそれを、自他共に認めていただろうことも疑いない。

彼がコンドラシンの指揮とともに演奏したチャイコフスキーのコンチェルトは、
伝説の名演奏といわれている。

華麗なるテクニックと深いタッチ、そして何よりも華がある。
カメラが執拗に手元を映しても、お構いなしの堂々たる演奏である。

だが一方で、同じくコンドラシンと演奏した「皇帝」を聴いてみよう。

これはお世辞にも褒められたものではない。はっきりと、失敗だと言っていいと思う。

必要以上に深みを出そうとしすぎて、かえってバランスを崩し、
この曲本来の流麗さを欠いたぎこちない演奏になってしまっている。

ここまで落差のある演奏をするピアニストも珍しいのではないだろうか。

チャイコやラフマニノフは、乱暴に言ってしまえば、
ある程度弾ければ、誰でも感動的に聴かせることはできる。

ましてやクライバーンのようなテクニックがあれば、
解釈云々で演奏の質をとやかく言われることはないのである。

が、それがベートーヴェンだとそうはいかなかった。
(聴いたことはないが、おそらくモーツァルトを弾いても同じだったろう)

古典派の曲は、テクニックとしてはロマン派ほどの難易度はないが、
それを感動的に聴かせるには、技巧とは別の次元での深みが要求される。

一躍アメリカのヒーローとなり、40代で引退同様の状態になったクライバーンには、
おそらくその「深み」を練磨する暇がなかった。

ある意味アメリカ資本主義社会の犠牲になったとでもいおうか、
社会と芸術の共存の仕方について考えさせられる一例である。

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