お盆週間ということで、いつもの五割増しで更新しています、
どうも僕です、ukiyobanareです。

僕の生まれは東京都中野区なのですが、
子供の頃は、とにかくアブラゼミの声ばかりがしていて、

たまに鳴くミンミンゼミはレアもので、
ツクツクホウシなどが鳴こうものなら、
友達に自慢できるぐらいだったと記憶しています。

なので僕の中では、東京の蝉=アブラゼミ、というぐらいに思っていたのですが、
この夏、ふと注意深く耳を澄ましてみると、

新宿の住まいの周りで夏を謳歌しているのは、
ミンミンゼミばかりのようです。

素数ゼミっていうのもあるぐらいですから、
あとまぁ、中野と新宿では若干場所も違うし、それほど気にしていなかったのですが、

先日山梨県の勝沼に行ってみたら、やはりミンミンゼミが多い。

帰りの高速道路での渋滞中に、相模湖あたりで窓を開けてみると、
ミンミンゼミをベースに、ヒグラシとツクツクホウシ。
アブラゼミの声なんて、聞こえないわけです。

ところが、この間の日曜日、
東向島の駅から隅田川まで三味線を背負って歩いていると、
聞こえてくるのは、これでもかとばかりの、アブラゼミの声。

「斉奏」というのは、こういうことを言うのでしょうか。
なぜか一瞬、懐かしくなってしまいまして。

ミンミンゼミやツクツクホウシの声というのは、
あれはあれで立派なメロディになっています。

ヒグラシも、メロディとは言えないものの、
音程を変えた二音を繰り返すことで、何とも言えない悲哀感を出しています。

それに対して、アブラゼミは、ジーッ、という、ただそれだけです。

ですので、場合によってはノイズともなるわけですし、
おそらく子供の頃の僕も、面白くない音として捉えていたと思うのですが、
東向島で聞いた、あの一斉のジーッ、という音は、
大袈裟に言えば、感動的ともいえる大合奏だったわけです。

虫の声に感動できる脳をもっているのは、
日本人とギリシャ人だけだ、という話を聞いたことがありますが、
その科学的な真偽は分からないのですが、
少なくともそのときは納得できました。

言わずと知れた、芭蕉翁の句に、

閑さや岩にしみ入る蝉の声

というのがあります。

よくよく考えると、この句はおかしいと思うのです。

なぜなら、
奥の細道を歩いている間じゅう、蝉の声は耳に入っていた筈ですし、
今と違って、車も走っていない世の中でしたから、
「うるさい状態」と「静かな状態」の差がそんなにあったとは考えづらいわけです。

それが急に、「蝉の声が辺りの静かさを際立たせている・・・」とかいうのは、
何をいまさら・・・という気がしてならないのです。

そこで大胆に想像してみるに、
この句を詠んだときの芭蕉翁は、
まさに東向島での僕と同じ体験をしたのではないかと思うのです。

(といいますか、実際は逆で、
東向島の僕が、咄嗟にあの句を思い出したわけですが。)

それまでは、種々の蝉が入り乱れて鳴いていて、
とりわけメロディを奏でる蝉は目立っていたことでしょう。

それがある場所に来たら、急にアブラゼミの、ジーッという声だけになった。

メロディのない音だけを、ずっと聞いていると、トランス状態というか、
不思議な状態になります。

それに真夏の暑さがプラスされます。

ジリジリとした暑さと、ジーッというアブラゼミの声。
そこには言葉では説明できない空間というか効果が生まれます。

それを言葉にしたのが、まさにあの名句だったのでは、と個人的には解釈しています。

※研究者の間では、この蝉は「ニイニイゼミ」ということになっているようですが、
期せずして斎藤茂吉の「アブラゼミ」説を、擁護する形となってしまいました。

最後に。
万葉集には、蝉が登場する歌が十首ありますが、
そのうちの九首は、「ひぐらし」と詠まれています。

残る一首はこの歌です。

石走る 瀧もとどろに鳴く蝉の 声をし聞けば 都し思ほゆ
(岩を流れ落ちる滝の轟きのように鳴く蝉の声を聞くと、あの懐かしい都のことを思い出す)

「石走る 瀧もとどろに鳴く蝉」というのは、まさにアブラゼミだと思うのですが、
どうなのでしょうか。

それにしても、蝉の声を聞くと都を思い出す、というのは、
今の感覚とは逆で、不思議な気もします。

そのあたりの話は、また今度別の機会にしようと思います。

では、また。

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