これは『今昔物語集』の巻第十二に収められている、
「肥後の国の書生、羅刹の難を免れたる語 第二十八」。

個人的に好きな話であるので、現代語訳して紹介することにした。

なお、細部においては、全体として別の話にならない程度の、
改変を施してある。

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これはもうすでに、昔の話。
肥後の国に一人の書記官がいた。

かれこれ二十年以上、朝から晩まで国府にて公務に勤しみ、
家庭に帰っては、父としてまた夫として、誰の目から見ても欠点などはまるでなく、
実際、彼には不満の影らしきものは、何ひとつとしてなかったのである。

そして、人一倍、よく働いた。
繁文縟礼たる国衙の仕事を、仲間のある者はあからさまに嫌そうにしてはいるが、
そんな仲間の様子さえ、彼には滑稽だった。

遠き都や新しい人事の噂など、普通であれば悩みの種となるべき要素も、
彼の心には波風ひとつ立てることはなかった。

それは彼が決して、冷淡だとか感受性に乏しいということでは決してなく、
どうせ為さねばならぬ仕事であるならば、
嫌がるよりもむしろ進んで片づけてしまおうという、合理的で、かつ現実に即した生き方。

つまり、彼としてはできるだけ精神に負担をかけまいと思って採用した方策が、
他人から見れば、何とも生真面目に捉えられてしまっているわけであり、

かといって、本人も自覚している、その自他における認識の差を埋める必要性を感じたこともなく、
ただ自然のなすがまま、己の信じた生き方を、静かに歩いていくのみだった。

この日は早朝からの出勤であった。

本来であれば、上官が処理すべき任務であったのだが、
穿った穴にもとあった欠片が吸い込まれるように、
半ば必然的に、彼の仕事となったのである。

それは霜月のはじめつ方、まだ日が昇らぬころ、
いつもどおり愛馬に乗って家を出た。

普段であれば従者を一人連れるのであるが、
この日の出勤時刻は異例の早さであったゆえ、
まだ眠り足らぬ様子の従者の心情を慮って、ひとりで行くことにした。

それは、従者への同情というよりも、単に自らの自尊心を満たしたいだけだったのかもしれない。
けれど、自尊心をくすぐられることほど、彼にとって心地よいものは他になかった。

仕事も平和な家庭も、すべては自らの満足のため。

物事がうまく運ぶこと自体が嬉しいわけではなく、
そういう状態を作り上げた自分が誇らしいのである。

馬が霜を踏みしめるサクサクという音が心地よい。
遠からぬ場所で鶏が鳴くのが、聞こえてくる。

遠くの山は、夜の残りを一気に吸い込んだかのように青黒くなり、
背後に昇る朝日の光に縁どられた山の端のわずか上には、
明星がただひとつ、夜が去るのを名残惜しそうに、細かな速度で瞬いているのが見える。

ここから国府までは、並足で半時ほどである。
見慣れた景色を馬上で眺めながら、彼は、この頃見る不思議な夢についてふと思い出した。

元来、夢など見る性質(たち)ではなかったゆえ、
たまに見る夢については、目覚めてのちもしばらく心に残っていることが多いのであるが、
今まではすべて他愛のない夢ばかりであった。

現実を補完し充足させるものが夢であるならば、
彼の夢は、すでにほぼ充足しきった現実のわずかながらの隙間に、
さも申し訳なさそうに迷い込んできてしまった「よそ者」だった。

あくまでも主は現実で、夢は従であり、
現実から漏れた残滓が映像となったものにすぎない。

ところがここ数日で見た夢は、今までのものとはどこかが違う。

どこが違うのかと問われても、
そもそも夢は論理の呪縛から自由な存在なのであり、
曖昧な感覚の語る印象でしか説明ができないのであるから、

あの夢とこの夢とは、どこが違うのかという問いは、
自分が生まれる前の世界と、死んだ後の世界はどこが違うのか、
と問うのと同じぐらい意味をなさないであろう。

けれど、役人の性なのかくだらぬ自尊心のせいなのか、
彼は、かような掴みどころのない夢というものを自意識の支配下におけぬもどかしさを嫌い、
何とかそこに理路を整えるべく葛藤を試みたのではあるが、
自らの脳は、ただひたすら不思議な夢の残像を映すのみであった。

ある日の夢は、こうだった。

彼は、一羽の鳥と化していた。
いや、厳密にいえば、首から上は彼のままで、首から下が鳥だった。

彼は群れに混じって梢に止まっていた。
周りの仲間が、そのやかましい囀りで何を言わんとしているかは、よく理解できるのであるが、
自分が何かを言おうとしても、それは醜い音になるばかりで、何も伝わらず、
仲間は顔を見合わせて皆飛び立ってしまった。

喉の渇きを癒すために立ち寄った沼のほとりで、
彼は初めて水に映った自分の姿を見、
己の頭部が、かくも浅ましい人間の姿であることを知った。

驚きとも憐みとも悲しみともとれぬ感情が湧出した瞬間、目が覚めた。
その居心地の悪い感覚は、拭いても拭いても滲み出る汗のように、なかなか去ってはくれなかった。

またある日は、こんな夢を見た。

息の詰まるような暑気の中、葬列に加わっていた。
僧侶を先頭に、村の者が十人ほど、丘麓の埋葬場所へと、音もなく歩みを進めている。

抑揚がまるでない読経の声が、蒸れた空気の中を拡散できずに、
葬列の人々に蠅のようにまとわりつき、また飽きたように去ってゆく。

濃緑に照り返された真夏の酷射が、肌をじりじりと焦がしているのが、
皮膚だけは現実から移植されてきたかのように、はっきりと感じられた。

埋葬場所へ着くと、読経はふっつりと止まった。
蝉のやかましい声が、空気ごと圧迫してくる。

と思うが早いか、自分は穴の中に横たわっていた。

背中や首に触れる土が、ひやりと冷たく、
顔と体の上にはぼろが被せられているのか、夏の強陽の明るさのみが感ぜられて、

しかしその明るさも、ざっざっ、と投げ込まれる土の影のために次第に視界は暗くなり、
再び開始された読経の声が、細く鼓膜に伝わってくる。

ああ、自分は埋められているんだと、と悟った。
なぜかそこには何の感情もなく、あたかも葬られることが当たり前のことであるかのように。

気付くと、今度は埋葬の場に立ち会う人々の輪の中にいた。
あの肌を焼き尽くす感覚が蘇り、埋葬場所に向かって手を合わせうなだれる自分。

自分は死んだのか。
それとも、死者を送ろうとしているのか。

そもそも死者と生者の境界線は、どこにあるのか・・・

そこで目が覚めた。

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こんな夢ぐらいどうということはない、と一笑に付してしまうことはたやすかった。

けれど今の彼には、それができなかった。
それをしてしまうことで、その奥にある何かもっと大きな悪を呼び起こしてしまうような気がして、
であれば、それらを不吉だと認めることで、万が一の悲劇を最低限に食い止めたいという思いだった。

馬が小さく躓いた。

我に返った彼は、世の中がほとんど朝になったことに初めて気が付いた。
と同時に、国府の決して立派とはいえないまでも、ありったけの虚栄で装飾された建物が、
そろそろ見えてきてもよいはずなのであるが、
一向にその姿を現さないことを不審に思い始めた。

そうなるともはや夢のことなどどうでもよくなり、
朝の光を片面に薄く浴びた彼の顔は、いまや謎に対して理路で臨む役人のそれだった。

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ここは、どこだ?
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馬の脚を止め、今一度冷静さを身内に呼び戻しながら周囲を見回すと、
見慣れぬ木々の群れや暗く濁った小さな沼、
果ては風の音、冬空に浮かぶ雲の形までもが、此処が異郷であることを告げているかのようだった。

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もう何遍、馬の進む方向を変えたことだろう。
その都度、太陽が彼の視野へと飛び込んでくる向きが変わるので、
すでにあらゆる方角を試してみたことは、明らかだった。

けれど太陽はその場にぢっとしているわけではない。
既に南の一番高い位置に、太陽はその尊大な居を落ち着かせていた。

馬の盛り上がった筋肉が、うっすらと湿って光を帯び、
その運動熱が白い気体となって身体から立ち昇るのを眺めながら、
彼は自分の中の冷静さも、同じように冬の中へと抜け出して凝結してゆくのを感じ取っていた。

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暗い、内臓のような森を抜け、視界の開けた場所に出たとき、
もはや夕暮が優勢だった。

濃密な橙色の空に、墨を溢したような雲がちぎられて棄てられている。
夕日は、馬の膝ぐらいの高さで続いている枯れた下草に複雑な光のパターンを刻印し、
死に後れた虫たちのか細い声と不協和音を奏でていた。

男は、これはまだ夢の続きなのではないかと一度は疑ってみたが、
時折すさぶ風の刺すような感覚が、ここが現実世界であることを、冷徹に告げていた。

今となっては、国府に辿り着くことはもちろん、家に帰れることさえも期待できず、
とにかく夜になる前に、泊まるべき宿を確保することが最優先であった。

暗くなるとともに、だいぶ雲が多くなった気がしてきて、
こんなときに雨か雪にでもなれば、最悪の事態となる。

心細さと焦りは、限界に達していた。

闇雲に馬を走らせ、危うく自暴自棄になりかけたとき、
緩やかな丘が連なったあたりに、人家の屋根らしき形が、ちらと認められた。

ただ、辺りはだいぶ暗くなってきたため、よくは見えぬ。

目を凝らすより近付くことこそ早かりけれと、一散に馬を駆り、
近付くにつれ形は漸く明らかに、
今やもう、それがかなり豪奢な建物の屋根であることは疑いがなかった。

このような辺鄙な場所に、何故ここまで立派な建物があるのか、
今の彼にはそれを不思議と思う理性すら残されておらず、

建物からほのかに漏れる灯りを、
百年続いた夜が明ける瞬間の日の出であるかのように、まぶしく眺めたのである。

「ごめんください。」

なにぶん大きな家であるので、できるだけ大きな声で案内を頼んだが、
家の中は動じる気配がない。

ならば、とばかりに、馬に跨ったまま家の周りをゆっくりと徘徊しながら、

「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんか。」

と声をかけてみたものの、物音ひとつしないどころか、
空気さえも固まっているかのようで、
あれほどまぶしく感じられた灯りが、今度は逆に恨めしくなったのが自分でもはっきりと分かった。

喉の渇きが、これ以上声を出すことを許してくれぬ。

ならば、取るべき道はただひとつ、
このまま家の中に踏み入って、留守であるならば家人が帰るまで待てばよし、
万が一誰かがいたとしても、あれだけ声を出して案内を頼んだのだ、
強盗や無法者の誹りは受けぬ、ともはや自らが役人であることすらも忘れ、
下馬しようとしたまさにその時、

「これはどなたがいらしたのでしょう。ご遠慮なくお入りあそばせ。」

それは女の声だった。

家の中から、まるで空気中を伝わらずに直接彼の耳に入り込んできたかのような、
虚ろな、実体のない声。

男は、ぞっとした。

人並みに、いやそれ以上に、女のことは知っているつもりだった。

どんな感情のときに、どんな声色を使うのか、
かといって、必ずしも、声と感情との間に法則性があるわけでもない、
そんな女どもの声のあれこれを、それなりに経験しているつもりだった。

だがこの声は、今まで耳にしたどんな声とも違っていた。
語尾の「あそばせ」を、不自然に持ち上げて、
その後に続く沈黙部分に、耐え難いほどの汚辱をまとわりつかせている。

その嫌悪感にたまらず、けれどこちらの感情を悟られないよう、
つとめて抑揚を殺した声で、男は答えた。

「どうやら道に迷ってしまいました。急いでおりますゆえ、中には入れません。
ただ、道を教えていただければ結構でございます。」

もはや一刻も早くここを立ち去りたかった。
こんなことであるならば、最初から黙って家に踏み込み、
女を凌辱するなり殺すなりしてしまった方が、まだましだった。

そんな彼の思いをかき消すかのように、
生理に訴えてくる女の声が、再び耳を侵した。

「それならば、そこでお待ちなさいな。そちらへ出て道を教えましょう。」

このときはじめて、何者かの気配がした。
そして、その気配がすーーっと近づいてくる。

女が出てくるのだと知れた。

背骨の上から下までを凍らせるような、冷たい感覚がぞくっと走り、
その直後に、体中の毛という毛が、何かに引っ張られるように直立したのをはっきりと感じた。

馬の首を巡らすやいなや、もと来た道を脱兎の如く、
馬の脚も折れなば折れなんとばかりに、風を切り、地を蹴らせ、
とにかくこの場を離れることが、命を守る近道であると、彼の本能が教えるのだった。

振り向きはしない、決して振り向きはしないのだが、
ただならぬ異様な気配が、猛然と追ってくるのが嫌でも分かる。

「これこれ、ちょっとお待ちなさい」

と、さらに不快さを増した、口に液体をねばねばと含ませたような女の声が聞こえた感じからすると、
追いつかれるのは時間の問題だと思われた。

男が思わず振り返ると、暗闇で姿は見えぬが、
身の丈はさきほどの家の屋根の高さほどで、
その真黒な姿の顔の部分に、爛々と光を放つ醜い目がふたつ。

男はようやく、自分が鬼の棲む家に来てしまったことを悟った。

今はただ逃げるしかない。

唸りとも叫びとも知れぬ女鬼の声が、後ろに迫ってくる。

今にも手を伸ばして襟元を掴まれ、馬上から引き剥がされるのではないかと、
思わず首を縮めたその時、男の横目に、ついにその姿が現れた。

余裕すらうかがえる速さで、馬の隣を並走する女鬼の姿。

目と口から炎を出すこと雷光の如く、
巨大な牙を剥き出しにして開いた口からは、涎の太い糸が後ろへ靡いていて、
それが、さも楽しそうに手を打ち、やや前屈みで疾駆しながらじっとこちらを見ているのである。

普段は仏心などひとかけらもなかったが、
このときばかりは観世音菩薩我が身を助け給えと、咄嗟に念じるやいなや、

馬も女鬼の恐怖に慄いたのか、どうと倒れたところを、
男は振り落とされて、地面に強かに打ち付けられた。

落下の衝撃で全身に強烈な痛みが走ったが、
今にも捕えられて喰われることの恐ろしさに、立たぬ腰でがむしゃらにその場を離れようとしたところ、
いずこの王族の墓であったろうか、

ちょうど人ひとりが入れるぐらいの横穴がぽっかりと口を開けているのを見つけ、
羽をむしられた鳥のように、地を這いのたうちまわって、何とかその横穴へと潜り込んだ。

地鳴りのような足音に続き、

「さっきの奴はどこへ行った」

という、地獄の野分のような恐ろしげな声がしたかと思うと、
一声馬が高く嘶き、世にもおぞましい咀嚼の音が聞こえ始めた。

器用に皮を剥ぎ、肉を喰らい、骨を舐め上げ、血を啜る・・

愛馬は女鬼の餌となった。

つい今しがたまで跨っていた感覚が、体温が、男の身体にはまだ生々しく残っている。
生きていたものが、一瞬にして消されることの絶望感。

ただ殺されたのではない。生きたまま喰われたのだ。

予測のつかぬ恐怖よりも、確定された恐怖の方が幾倍も恐ろしいことがある。

女鬼が現れ追われるところまでは、予測のつかぬことであったかもしれぬが、
もう間もなく、確実に訪れるであろう事柄は、
この状況に置かれた彼にも、十分に予想できた。

それは、愛馬の次に自分が喰われることである。

これまでの人生は、死とは無縁だった。
いや、日常に没頭することで、死の恐怖を無意識に遠ざけていただけかもしれぬ。

いずれにせよ、自分が死ぬなどということは考えてみたこともなかったし、
だからこそ、数日前のあのような夢が殊更に疎ましく、不快に感じられたのだった。

しかし今は夢ではない。
生きたまま鬼に喰われ、喰われながら死ぬのだ。

喰われて死んで、この世に残すものは抉り取られた目玉と、僅かな肉片だけかもしれない。

それに比べれば、安らかに死んだ結果地獄へと落ちて、
そこで獄卒どもにいたぶられた方が、ましであるとさえ思えた。

観世音菩薩よ、我が身を救い給え・・

再び仏を念ずること以外に、どうしようもない。

穴の外が静かになったのは、馬を喰らい終わったのだろう。
やや満足した声で女鬼が、穴に向かって語りかけてきた。

「そいつは自分の獲物だってのに、何だって分けてくれないのさ。
いつもそうやって酷いことをするのは、いい加減にしてほしいもんだね」

男は、自分がこの穴に隠れていることも鬼は知っているのだと分かり、
全身の血が一滴残らず抜けてしまうような心地がして、
果たして女鬼が言っていることは何を意味しているのかなどは、どうでもよいことだった。

あぁそして、本当の絶望とはこのことを指すのだろう、
さきほどの女鬼の言葉に呼応して、今度は男の潜んでいる穴の奥の方から、
またもや異様な声が、響いてきたのである。

「こいつは自分のものだから、お前には渡せない。
お前はもう、馬を喰っただろう?」

冬ではあるがじめっとした、穴の中の空気が一瞬にして凍り付いてしまうような、
そんな残酷さを、ありありと誇った声だった。

どうあがいても、もう助からない・・・、
何とかこの穴へ逃げ込んだと思ったら、此処にも別の鬼がいるとは、
観音菩薩を念じた甲斐もなかった。もう死ぬのだ・・

この世に悔いがないといえば嘘になるかもしれぬが、
すべては前世からの因縁だったのだろう・・・

と、遂に男は覚悟を決めた。

家に残してきた妻と子供、そして母のことを思うと、涙が止まらなくなった。
この嗚咽を、果たして鬼どもはどう聞いているのか。
そして、仏の耳にはやはり届かないのであろうか。

男がそんなことを考えている間、
穴の内と外の鬼はやりとりを続けていたようであったが、

結局、内の鬼が男を差し出すことはないと諦め、
外にいた女鬼は、未練たっぷりにしぶしぶと帰っていったのだった。

となれば、穴の奥にいる鬼が自分を喰らうのであろうと、
男はいよいよ目を瞑って、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、」と仏の御名を呼び奉ったそのとき、

奥にいた鬼が、

「お前は、今日鬼に喰われるはずだったのが、しきりに観音菩薩を拝んだことで、
難を逃れることができたのだよ。<br/ >今から後は、心から仏を念じ奉り、法華経を信仰、読誦しなさい。
そもそも、こんなことを語っているこの私のことを、お前は知っているのか?」

男が申し訳ないが分からない、と答えると、奥の声はさらに続けた。

「私は、鬼などではない。

かつてこの辺りに聖人がいて、西の峰に卒塔婆を立てて、法華経を埋めたのがこの穴である。
その後、永い年月が経ち、卒塔婆も経も朽ちてなくなってしまったが、
「妙」という一文字だけが残ったのだ。

その「妙」という一文字こそが、とりもなおさず私のことである。
私はこの場所にいて、さきほどの女鬼に喰われようとした人を九百九十九人救ってきた。

そしてお前でちょうど千人になったのだ。

今はもう、すぐにここを出て、家に帰りなさい。
ただくれぐれも、仏を一心に念じ、法華経を読誦することを忘れないように。」

そう語る奥の声はもはや鬼などではなく、天上から響く妙なる笛の音のようで、
穴の中には芳香が満ち、
声の主がいらっしゃると思われる辺りは金色に輝くこと、
千の日輪を合わせたかと思うほどであった。

男は涙が止まらず、なおも仏の名を唱えながら穴の外へ出てみると、
容姿端麗なる童子が、男を家まで送るために待っていた。

どこをどう歩いたのか、見当もつかない。
もしかしたら、童子に手を引かれて空を舞ったのかもしれぬ。

紛れもない自分の家の門が見えてきたとき、童子は鈴の音のような声で、

「くれぐれも、さきほど言ったことを忘れないように。」

とそれだけ言うと、ふっと姿を消してしまった。

礼を申す間もな、く童子が消えた方を向いたまま泣く泣く拝み続け、
ようやく家に着いたときには、既に真夜中になっていた。

男は妻と母に今日一日の体験をすべて語り、三人で夜が明けるまで泣き喜んで、
それから後は、仏を拝み奉ること極めて篤く、読誦の声の絶える日は決してなかったという。

この話を聞いて思うに、
「妙」という一文字ですら、朽ち果ててもこのように人を救うのであるから、
有難いお経であれば、現世のみならず来世までをも人を導くことができるのである。

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というお話。