キリスト教といえば、ローマ法王。

仏教といえば、ダライ・ラマ。

この二人は、それぞれの宗教の一部を代表しているにすぎないのだが、
しかし、特に非信仰者にしてみれば、
それぞれの宗教の「顔」になっているのは事実だ。

だが、イスラム教にはそれがない。

本来はカリフというイスラム教の最高権威がいるはずなのだが、
廃止になってかなり長い時間が経つ。
(イスラム国はカリフを擁立しているが、国際的に承認されていない。)

別に実在の「人」に限らない。

仏教でいえれば、ブッダや仏像の顔が思い浮かぶし、
キリストや聖母の顔を思い描くのは、誰にでも容易なはずだ。

けれどもイスラム教は、徹底した偶像崇拝のせいもあり、
人以外の「顔」も、思い浮かべることができないのである。

その結果、大部分の人のイスラム教に対するイメージは、
不可解、謎、怖い、という、負のスパイラルに入ってしまっている気がする。

人間が、「分からない」というものに対して、
本能的に警戒心を抱いてしまうせいだろう。

何が言いたいかというと、宗教においては、
顔や姿、つまり人型の象徴が必要なのではないのだろうか、ということ。

宗教というのは、ある意味閉鎖的なため、
信者に対しては篤くフォローするが、「非信者からどのようにみられているか」ということに関しては、
おろそかになることが多いのではないだろうか。

イスラム教の「顔」が見えないことについても、
信者にはそんなことは重要ではなく、教義さえあればよいのかもしれない。

ただ、非イスラムの人間からすると、
それは、「分からない」のである。
「分からない」ものに、警戒してしまうのはやむを得ない。

どちらが良いとか悪いという問題ではなく、
そこに相互理解のための根源的な溝があるということだ。
(特にそれを悲観的に解釈する必要もないし、乗り越えるべきだ。)

6世紀に、我が国に百済から正式に仏教が伝来したとき、
欽明天皇のもとに届けられたのは、経典と黄金に輝く仏像だった。

それまでの日本には、自然信仰のようなものはあったが、
そこに用いるアイテムは、極端に少なかった。

ましてや人型のアイテムともなると、
土偶や埴輪ぐらいのものである。

そこへ、精巧で柔和な顔をし、金色に輝く仏様がやってきたわけである。

そのときの天皇周辺の者たちの驚きは、
想像を絶するものだったに違いない。

そして瞬く間に仏教は日本人の心をとらえ、
国家宗教となり、仏像が量産されていくのである。

宗教に顔が必要というのは、
平たく言ってしまえば、広報やプロモーションが大事だということである。

理解されているうちはまだよいが、
非信仰者の理解が不能になったとき、
事態が一気にマイナスの方へ進んでしまうことだけは、避けたい。