刀の”オブジェ”としての価値には全く興味はないけれど、
それを握ったもの達が辿った運命というか生き様には、興味がある。
特に源氏代々の宝刀「鬼切」については、
頼光四天王・渡辺綱の腕切りのエピソードなどは昔からよく馴染んでいたので、
いくたびもの呼び名の変遷を経て、
最後は新田義貞の憤死の手に握られていた、
というくだりは、まさにワクワクしながら読めた。
刀を聖なるものと崇める習慣は、洋の東西を問わない。
それが護身具であるというのだけが理由であるならば、
別に弓でも槍でもよいはずなのだけれども、
なぜ刀だけがここまで重宝されるのかといえば、
おそらくその形状にあるのではないか。
刀以外の武器については、あまり美しいと思えない。
装飾にしても、弓を除けば、
刀以外の武器はそれほど手の込んだものは施されていない。
つまり、刀が神聖視された背景には、
やはり美しさという要素が多分にあるのであろう。
人を殺す道具が美しいというのは、
なんともバカげたように聞こえるかもしれないけれど、
今はそれを言っても仕方がない。