金子 武雄 著「称詞・枕詞・序詞の研究」(公論社)
わが国における韻文の、
つまり文芸・文学の歴史を遡れば、

必ずこの、
「称詞・枕詞・序詞」の問題に直面する。

これらがどのようなものなのか、
そしてどのように生まれたのかを論じた書なのだが、

古い本(昭和52年初版)ということもあり、
残念ながら想定の範囲を超えた内容ではない。

というよりも、この分野の研究は、
下手すれば江戸時代から進歩がない。

畏れ多くも、
本書へ苦言を呈するところから始めるならば、
著者は例えば、枕詞の章において、

できるだけ上代人の心に立ち還って、
もっと素直に、もっと自然に即して考え直すげきではないか。
・・・
現代人の心であまりに論理的に
区別を立てて分類するのは、
上代人の心のはたらきに合致しないのではないか。
上代人の意識はもっと素朴で
単純であったはずである。

と述べておきながら、

やれここは文法的に連用修飾だ、
やれこれは連体修飾ではない、
やれこれは隠喩であって顕喩ではない、

などと、文法的なあれこれに拘泥し、

さらに既存の注釈書の「現代語訳」のダメ出しに精を出すという、
ある意味お決まりの、
これが国語・国文学の限界という姿を、
露呈してしまっているのが、残念でならない。

著者の指摘するところの、
「上代人の心のはたらき」をヒントにし、
僕ならば、こう考える。

称詞・枕詞においては、
詠み手の心のベクトルは内側へ向き、
それらが修飾する語に、
エネルギーを集中させる役割があり、

一方、序詞については、
詠み手の心のベクトルは外向きであり、
自らの感情を、外界の何物かに託して、
述べようとする意識が働いている、

ということだ。

そして詠み手のベクトルが、
内側から外側へ向かうというのが、
まさにわが国の文学上のパラダイムシフトであり、

またその転換期に位置するのが、
人麻呂の長歌であり、

和歌というジャンルが、
叙情歌から叙景歌へと、
表現の幅を拡張できたのも、
まさにここだと思うのである。

似て非なる枕詞と序詞における、
「詠み手の心」の違いについては、
いつか何かしらの形で考えをまとめたいと思っているが、

これ以上は本書の感想という領域を越えるので、
ここまでとしたい。