「太平記(五)」(岩波文庫版)

 

この四月に出た岩波文庫版の最新刊で、
第三十~三十六巻を収録。

あとは十月に(六)が出れば、完結となる。

さすがにここまで来ると、
物語としてはマンネリ化というか、

まぁ、そもそも前半で楠木正成や新田義貞といった、大物武将が死亡してしまうため、
後半はどうしても小粒感が否めない。

今回の(五)では、義貞や正成の息子たちが活躍はするのだが、
人物としてのスケールというか魅力に乏しいのである。
(おそらく史実ではなく、ほとんどが創作部分なのであろうが)

そんな中で、今回気になった部分は、
第三十六巻の「大地震並びに所々の怪異、四天王寺金堂顛倒の事」のくだり。

古典作品における大地震の描写は、「方丈記」のものが有名であるが、
「太平記」のこの部分でも、地震や津波の恐怖がリアルに描かれる。

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俄かに大山の如くなる潮漲り来たって、
在家一千七百余宇、悉く引く潮に連れて海底に沈みしかば、
家々にあらゆる処の僧俗、男女、牛馬、鶏犬、
一つも残らず底の藻屑となりにけり。
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津波に流される、という表現ではなく、
海底に沈められる、という書き方が、怖い。

さらにこのあとに続いて、こうある。

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摂津の国難波の浦の沖数百町、
半時ばかり乾き上がりて、無量の魚ども砂の上に吻きける程に、
あたりの浦の海人ども、網を巻き、釣を棄て、
われ劣らじと拾ひける処に、
また俄かに大雪山の如くなる潮満ち来たって、
漫々たる海になりにければ、
数百人の海人ども、独りも生きて帰るはなかりけり。
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東日本大震災のときに、
津波がくる直前に、一瞬潮が引いた、という証言があったのを思い出す。

この地震は、1361年の6月に起こったもので、10月ごろまで大きな余震が続いたらしく、
別の資料で調べると、推定マグニチュードは8強、
いわゆる南海トラフ地震であったことが分かる。

ただ、地震以外にもすごく気になっていることがあって、
最初の地震が起きたのが、6月18日、

数日後の6月22日には、急に真冬の天候となり、
大雪が降って、凍死者が大勢出た、という記述に注目したい。

南北朝時代が、世界的な寒冷期にあったことは、
前回の「太平記(四)」でも述べたが、

ここでの異常な気象も、その一環であることは間違いないのだが、
でももしかしたら、大地震と関係があるのでは、と疑ってみたくもなる。

そこで1361年のその他の災害について調べてみると、
「新潟焼山」(にいがたやけやま)の大噴火というのがあった。

現在までたびたび噴火している活火山で、
1361年の噴火は、VEI(火山噴火指数)3と見られているようなので、
まずまずの規模ではある。

新潟焼山は、フォッサマグナ近くに位置している火山であり、
噴火が先か地震が先だったかは分からないけれど、

プレートの活動が活発化していた時期であって、
双方の事象ともに、その一連の出来事であることは間違いない。

火山の大規模な噴火により、
気温が一時的に低下する(いわゆる「火山の冬」)ことは知られているが、
では果たしてこの新潟焼山の噴火が、どこまで気温低下の原因となったか。

影響がゼロであったとはいえないが、
近年のもっと大規模な噴火から想像するに、ほぼ関係ない、と言えるであろう。

ともあれ、この1361年という年は、
未曽有の大地震と津波、そして火山の大噴火という天災が相次いで襲ってきた年であり、

それに世界的な寒冷化による穀物の不作などが重なって、
戦乱をますます泥沼化させていったに違いない。