過去の小説家の知名度とは、
文学史に残っているかどうかと同義である。
優れた作家・作品であっても、
文学史に残らなければ評価はされない。
その逆もまた、然りである。
では、優れた作家・作品であっても文学史に残らないというのは、
どのような場合だろうか。
森田草平の「煤煙」はまさにその典型的な例であって、
不倫・心中未遂、といった、
明治の世の中にあっては破廉恥極まりない題材(しかも実話)をテーマにしているがゆえに、
この作家・作品が文学史で採り上げられることは、まずない。
森田草平は、夏目漱石の弟子である。
流石の炯眼というべきか、
この「煤煙」を発表するように強く推したのも漱石であって、
実際読んでみると、確かに面白い小説だし、
細かな部分で作者の非凡な文筆力を窺い知ることができる。
例えばこんな一節がある。
主人公が水道橋の上から、下に流れる水を覗きこむ場面、
「・・・橋の下を濁った水がゆるく流れる。
何物の影をも映さない、又何物をも沈めて返さないという水である。
ぢっとそれを眺めているうちに、何しに来たのか、
何のためにこんな所へ来たのか想ひ出せなくなった。・・・。」
「何物をも沈めて返さない水」なんて表現は、
なかなかできない。
主人公の浮き沈みする気分を、
心憎いほどに適確に表現している。
内容はというと、「男のエゴによる不倫」とでも言おうか。
女性が読んだら、主人公の男のことを忌々しく思うに違いない。
それだけ自分勝手で、面の皮が厚く、
しかもかなりのインテリときてるから、猶更たちが悪いのである。
小説内の人物の性格を評する、あまり意味のあることではないが、
先にも書いたように、この小説は実話であり、
主人公=作者自身であるから、
人物を云々することは、つまり作者を云々することだから、
それはそれで意味があろう。
内田百間、芥川龍之介、寺田寅彦・・・、漱石門下は個性派揃いだが、
森田草平の「煤煙」は、
その中にあっても、さらなる異彩を放っている。
同じく「不倫」を扱った、師・漱石の「それから」などと比べても、
全くひけを取らないのではないかとも思えてくる。
文学史からこぼれてしまった傑作だろう。