「空海の風景」(司馬 遼太郎)
大学に入ったぐらいから、
小説というものをほとんど読まなくなった。

その理由については、ここでは関係ないので、深く触れない。

読むものとすれば、我が国では、夢野久作、
稲垣足穂、澁澤龍彦、海外では、アポリネールやポオなど、
もっぱら幻想小説だけが、僕の小説的好奇心を満たしてくれていた。

だから、歴史小説なんて読むはずがない。

ましてや、司馬遼太郎なんて、
本を手に取ったことすら、なかった。

別に司馬遼太郎が読みたいわけではなかった。

僕の興味は、数か月前から、空海という人物にあった。

『文鏡秘府論』でのレトリーカーとしての空海、
『三教指帰』での文学者としての空海、
『性霊集』での詩人としての空海、
密教美術という視点からの空海、
達筆者としての空海、
そして当然、宗教者としての空海、

さらに、上記すべてをまとめ、寺院の建設から仏像の彫刻にいたるまで、
”密教”をシステム化した「プロデューサー」としての空海。

喩えが悪いかもしれないが、
あたかも西洋ルネサンスにおけるミケランジェロやダヴィンチのような、

いや、それ以上の、
空海という「なんでも魔人」に興味を惹かれていた。

まさに、弟子の真済が、『性霊集』の序文に記しているところの、

「天、吾が師に仮すに、技術多きをもってす」

という多方面に渡る天才である。

そんな僕が、司馬遼太郎の『空海の風景』を読むことになったのは、
必然と言える。

繰り返すけれども、
自分には司馬遼太郎に対する先入観がまるでなかった。

ただただ、空海を知りたいがために、
この”歴史小説”のページをめくってみた。

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・・・・・・・・・・・
僕は唸らされた。

これほどの名著が今まであっただろうか。
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・・・・・・・・・・・
司馬遼太郎の他の作品については、
まるで知らない。

けれども、この『空海の風景』については、
これは決して、歴史小説ではない。

いや、敢えて小説というのであれば、
著者が控えめに挿む創造的逸話や、
「最澄」というアンチテーゼに殊更にスポットライトを当てることによる、
劇的な対比効果といった要素は、確かに小説的ではあるが、

しかしながら、
この著作は、小説ではなく、むしろ論文(味気ない言葉だが)に近い。

もしも、特に空海や密教に興味があるわけでもない、
司馬遼太郎、あるいは歴史小説のファンがこの『空海の風景』を読んだとしたら、
退屈で途中で投げ出してしまうに違いない。

さっき、論文、といったが、それでは申し訳がない。

エッセイ、とも違う。

これはあたかも、空海の『三教指帰』のように、
ありきたりのジャンルに分類されない、知的遊戯である。

著者が、空海にそして密教に対して抱いた感動を、
ストレートに表現したら、このような著作になったのだろう。

空海に迫るつもりで読んだにもかかわらず、
結果として、司馬遼太郎という魅力に迫ることになってしまった。

とんでもない名著である。

素直に、称賛したい。

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