”行為”という視点に立つと、
おそらく人間は2つのタイプに分類される。
①ボトムアップ型
与えられた事象から、その意味することを汲み取り、
抽象化を行い、意味付けを行う。
五感からのインプットを脳に伝えるタイプ。
②トップダウン型
脳で思ったこと、感じたことを、事象として表現を行う。
脳からのアウトプットを何らかの形で行うタイプ。
つまり、野球評論家は①であり、野球選手は②。
天文学者は①であり、宇宙飛行士は②。
指揮者は①であり、作曲家は②。
といった具合である。
吉本隆明と坂本龍一という、
文学と音楽の両巨匠の対談を読んだとき、
最初の印象が、「全然噛み合っていない」というものだった。
双方の個性が強ければ強いほど、
その対談は、噛み合いすぎるか、噛み合わなくなるか、
どちらかの可能性がぐんと高まる。
残念ながら、この対談は後者だろう。
ではなぜ噛み合わないのか。
それを考えた結果が、
上記の、人間には2つのタイプがいる、というものだった。
吉本隆明という人は、詩人ではあるが、
(自分でも本書で認めているとおり)批評家としての性質が強い。
※僕も、そう思う。
つまり彼は、自ら創作するタイプというよりも、
思索をするタイプ、つまり上記の①にあたる。
では坂本龍一という人は、音楽家だから②か、
というと、そうではないところが、
この対談が噛み合っていない原因なのではなかろうか。
一言で音楽家といっても、作曲家と演奏家では、
ベクトルの方向がまるで違う。
作曲家は、完全に②のタイプ。
つまり、画家や彫刻家と同様、
自らの感覚をカタチにする人間である。
それに対し、演奏家というのは、
彼らの本分は演奏すること自体ではなく、
いかにその作品を理解(消化)するか、
つまり上記の①の作業が前提となっている。
①を経た上で初めて、演奏という行為へと移行するものなのだ。
では坂本龍一という人はというと、この人は作曲家であり、
同時に演奏家、すなわち①と②の両方の性質をもっている。
本人が気づいているかどうかは分からないけれども、
ひたすら①のタイプの人間として振る舞う吉本隆明に対し、
坂本龍一は、時には①の人間として、そして時には②の人間として、
それぞれ別の顔でもって答えていて、
それに吉本氏が翻弄されているのだ。
だから話が噛み合うはずがない。
おそらく対談を企画した人は、
吉本=①、坂本=②と考えていたのだろう。
ところがどうして、坂本龍一という人は、
①と②の間を何とも器用に行き来できる人だったのだ。
だからこの対談を読んで、
吉本隆明がちょっぴり気の毒になったし、
逆に、坂本龍一という人は、
とても器用な人なんだと、感心させられた。
さて肝心の内容はと言うと・・・
うん、まぁ、どうだろう、、、何せ話が噛み合っていないので、
内容がつかめない、というのが正直な感想。
結果的に、最近読んだ中では、
何とも変わった一冊になってしまった。