常々思うことは、
我が国では、孔孟による儒家思想が、
金科玉条のように崇められている。
これは江戸幕府以来の教育方針が原因なのかもしれないが、
儒家思想とは、つまりは出世の為の哲学なのであり、
教える側も教わる側も、
そうだとわりきって臨むのであればよいのだが、
どうもそうではなく、
「孔子様の教えは道徳的に素晴らしいものである」
と思われている節があり、
私はそのような傾向には、大いに反対である。
繰り返すが、孔子の教えというものは、
所詮は処世術である。
人生とは何か、人はどう生きるか、
というヒトの根源を考えさせてくれるのは、
この「老子」の方だ。
むしろ、厭世観を含んだ「老子」の思想は、
多少とも仏教に慣れ親しんだ日本人にとって、
近しいものと感じられるのではないだろうか。
私のお気に入りは、
「絶学無憂(学を絶たば憂いなし)」ではじまる一章。
ここで老子は、珍しく主観的に語りかける。
・・・・・
周りの人は富んでいるのに、なぜ自分だけはみすぼらしいのだろう。
周りは輝いているのに、なぜ私だけは昏いのだろう。
静かなることは海のようで、強風が吹くように止まることもない。
それでもかまわない。私だけは道を大切にしていこう。
・・・・・
押韻を重ねながら、切々と綴られるさまは、
まるでロマン派の詩人のようである。
「上善如水」とは、
あまりにも知られた「老子」中の一句だが、
その直後に、次のように語られる。
水というものは、あらゆるものに恩恵を与えながら、
決して争うこともなく、誰もが嫌がる低い場所へと落ちてゆく。
・・・・・
水と同じように、身の置き所は低い方がよく、
そうすれば、そもそも争いがなくなるから、誰からも咎められない。
・・・・・
「老子」を隠者の哲学だと言ってしまえばそれまでだが、
あらゆるものが満ち足りた今の世の中だからこそ、
この偉大なる古典が再評価されるべきだと思う。