今日は、花園神社の大祭ということで、
家の近所が随分と賑やかだった。
冠婚葬祭という言葉は便利なもので、
「今日は冠婚葬祭なんで・・・」などと言われると、
まぁ仕方ないか、と思えてしまうぐらい、不可侵なものであるし、
お盆やらお彼岸やら、あるいは結婚式やら葬式やら、
家にまつわるあれこれの事柄は、
大概このひと言で片づけることができる。
冠婚葬祭のうち、前の3つは、その意味するところが限定的であるのだが、
「祭」というのは、非常に広い範囲をカバーしている。
まず日本語としての「まつり」の意味は、
「たてまつる」という言葉にも表れているように、
神や先祖にものを差し上げることからきている。
「まつろふ」(服ふ)となれば、自らを捧げること、
すなわち服従するという意味になる。
政治のことを「まつりごと」というが、
これは本来、政治と神事が一致していたことの名残であり、
現代の民主主義的に解釈すれば、
「政治とは人民に捧げるもの」となるのであろうが、
それはまぁ、この際どうでもいい。
漢字の「祭」の方はどうだろう。
下部分の「示」は祭壇を表している。
上部左の「月」は「にくづき」であり肉体を表し、
上部右の「又」は手を表すので、
「祭」というのは、かなり血腥いが、
祭壇に肉体や手が捧げられた状態、であり、
日本語の「まつり」にこの漢字が充てられたのも、頷ける。
このような「祭・まつり」の意味からすると、
神輿を担ぐものであれ、盆踊りであれ、
日本各地で見られる、いわゆる「お祭り」と呼ばれるものは、
その本来の意味から外れてはいない。
あるいは葬儀のことを「葬祭」ともいうが、
これも先祖(ついさっきまでは家族だったわけだが)に敬意を表するという意味では、
そんなに違和感はない。
けれどもこれが、「音楽祭」とか「学園祭」、「体育祭」となると、
おや、と思えてくる。
別に神や先祖に何かを捧げるといった大袈裟なものではないのに、
なぜ「祭」の字が使われているのだろう。
これは、英語の「festival」を和訳した際に、
「祭」を充ててしまったことに、
発端があるのだと思う。
つまり、「祭・まつり」というのは、そもそもは神事であったものだが、
たとえば神社のお祭りのような、
あの賑やかな一面だけが特徴としてクローズアップされてしまい、
「祭・まつり」=「festival」としても、定着してしまったわけだ。
すなわち、もともと大和言葉として存在していた「まつり」に、
それに意味の近い中国語である「祭」が充てられ、
さらにそれが広義に解釈された結果、
西洋語の「festival」とも結びつけられたという、
日本語としては特に珍しくもないが、
このような運命を辿ってきた語なわけだ。
「冠婚葬祭」とは本来は儒教のことばで、
「春夏秋冬」のように、
4つそれぞれが独立した意味をもつ熟語なはずである。
ただ現代日本人としてあらためてこの語を考えてみると、
「祭」の部分の曖昧さがちょっと気になっていたもので、
花園神社の神輿の掛け声をきっかけに、
わざわざちょっと書いてみた次第。
「今日は、冠婚葬祭なので会社を休みます」と言った場合、
それが「七夕祭り」や「音楽祭」であっても、認めてくれる上司は、
きっと許容と教養が広い人に違いない。