歌舞伎にせよ文楽にせよ、あるいは文学や美術の世界においても、
我々が「伝統文化」と呼んでありがたがっているものは、
文化のほんの「うわずみ」にすぎないのであって、
真の文化は、「うわずみ」の底の、濁った澱のような部分にあると思っている。
ではその「うわずみ」は、いかにして「うわずみ」となり得たかを考えるに、
本当に素晴らしいものだから、というのももちろんあるが、
政治的やら何やらの、正統とはいえない理由によって、
現代で幅を利かせているものもあるだろう。
同様に、不本意な理由によって、「文化の澱」となり、
埋もれてしまった文化・芸能もたくさんあるということだ。
百聞は一見に如かず。
ならば自分で確かめてみればよい。
自分の目と耳は、既に「うわずみ」に毒されてしまっているが、
「澱」の中から、何かしら感じとれるものも、あるかもしれない。
ということで、9月28日(日)、板橋区立文化会館大ホールに足を運んでみた。
1.横尾歌舞伎
これは、静岡県浜松市の横尾という土地に伝わる、いわゆる農村歌舞伎のひとつ。
演目がいきなりヘビーで、「菅原伝授」の「車曳き」の段。
役者はもとより、太夫や三味線、衣装や道具類も、すべて自分たちでまかなっていて、
おそらく、江戸時代の初期の歌舞伎というのは、こんな感じだったのではなかろうかと思わせる。
2.関山の仮山伏の棒遣いと柱松行事
前の歌舞伎とうってかわり、
これは今回の演目の中でもっとも難解だったものだ。
新潟県の妙高市に伝わる、山伏の演武ということだが、
奇妙としかいいようのない動作が、ミニマルに繰り返されてゆく。
一応、棒状のものを二人でぶつけ合う動作が基本なのだが、
途中で、修験道版ヨガのような、不思議な体勢での「間」が挿入される。
もしかしたら、相撲の古い原型が、ここにあるのかもしれない。
3.和合の念仏踊
長野県下伊那郡に伝わるもので、
最初は盆踊りのように、太鼓と踊り手が円を描いて進むのだが、
太鼓と鉦と篠笛が、同じフレーズを延々と繰り返すうちに、
まるでトランス状態のようになり、踊り手同士が、激しくぶつかり合う。
(しかも奇妙なことに、全員が頭からすっぽりと傘をかぶっている)
これを見てパッと思いついたのが、西洋のタランテラという踊りだったのだが、
舞台で観ている分には、「そんなものか」で済ませられるけれど、
実際は、20時~24時頃の暗闇の中で行われるそうで、
もし目の当りにしたら、不気味以外の何物でもない。
おそらく、この踊りの源流には、
太古の生贄の儀式とか、何かそういう血なまぐさいものがあるのではないかと、
本能的に感じたのだが、どうだろう。
4.塩平の獅子舞
中華街とかで目にするような、我々が見慣れている形の獅子舞ではなく、
ここでは雌獅子が、女性的に優雅に舞う。
最後は「剣の舞」となり、厄除け・破邪としての役割をきちんと果たしていた。
5.相模国府祭(こうのまち) 鷺の舞
「鷺の舞」は、平安時代の宮中で舞われていたものらしく、
それを相模の国に赴任してきた国司が伝え、いまに残ったということだ。
京都には、すでにこの「鷺の舞」は残っておらず、
遠国の相模で奇跡的に伝承されているというのは面白い。
珍しい舟形舞台で鷺のお面を被った舞い手が、
舞というよりも、型に近いような動きを、雅楽に合わせて優雅に繰り返す。
「鷺の舞」が終わると、「龍の舞」「獅子の舞」と、
被るお面も合わせて変更しながら、型を変えてゆく。
6.岡田八幡神社の正月祭
伊豆大島の岡田という港は、
古くから漁師たちが、各地の文化を海伝いに運んできた場所だったようで、
「文化の船着き場」的な役割をしていたそうだ。
現在伝承されている唄は、200ほどあり、
中には、オリジナルは消失してしまったが、この岡田では残っているものもあるらしい。
その唄に合わせて、「手踊り」を踊るわけだが、
踊り手は若い男性に限られているそうで、
どう見ても女性的な踊りを、なぜ男性だけが踊るのか、
おそらくそこには、文化・風俗的な深い理由があるに違いない。
7.説教浄瑠璃/八王子車人形
さて、いよいよ真打の登場である。
実は、今回はこれを観に(聴きに)来たと言っても、過言ではない。
説教浄瑠璃や車人形を、「民俗芸能」と呼ぶには若干抵抗があるが、
本流にはなれなかった亜流であることは間違いなく、
その意味では、これらもまた「文化の澱」である。
説教浄瑠璃には、義太夫や清元のような、洗練された節回しがない。
ワンフレーズずつがブツ切りとなっており、
そこが逆に、ストレートな情に訴えかけてくる。
仏教の説教からはじまったといわれるのも、納得がゆく。
車人形については、
通常の文楽人形が3人遣いなのに対し、
こちらは1人遣い。
しかし、その動きたるや、3人遣いにも劣らないほどで、
それを可能にしているのが、人形遣いが車に腰かけて、人形を操るところにある。
幕末に、やや形骸化してきた人形浄瑠璃に新しい様式を盛り込むべく発案されたものらしいが、
現在ではこれがなかなかの人気で、
オペラとの共演や、海外公演も盛んということだ。
正統の人形浄瑠璃が、義太夫節+文楽人形なのに対し、
今回は、説教節+車人形で、演目はお馴染みの「日高川」。
通常、説教浄瑠璃というのは素浄瑠璃がほとんどのはずで、
今回のような人形浄瑠璃の形式では、
さすがに若松若太夫さんも難儀そうだったが、
それにしても、軽妙な語り口と洗練された三味線、
義太夫節のあのネチっこさがない、
洒脱な芸風は、上方と江戸との文化の違いなのであろうか。
車人形も、今回が初見であったのだが、
こちらも素晴らしすぎて驚いた。
文楽人形の大袈裟さ・窮屈さがまるでなく、
文字通り生きているかの如く、舞台を動き回る。
義太夫を学んでいる身としては、なかなかツラい立場なのだが、
説教節も車人形も、正統の義太夫や文楽の人たちからしたら、
邪道もよいところなのだろうけれども、
そこで冒頭の話に戻って、そもそも正統・邪道って何だろう、
と考えると、これがなかなかディープなところまで落ちてゆく。
ただ、ともかくも今回の「日高川」には感動できた。
それでいいと思う。