「現代思想 2015年9月号 絶滅―人間不在の世界」

 

「現代思想」なんて雑誌は、普段まず読むことがないのだが、

我が家の本棚を探してみたら、一冊だけあった。
「2005年10月号 宇宙論との対話」。

十年以上前から、自分の読書はブレてないというべきか、
進歩がないというべきか・・・。

たぶん前回もそうだと思うのだけれど、
今回も別に計画的に買ったわけじゃなく、

書店のエスカレータを降りながら、
「絶滅」というタイトルが目に付いたので、

再度上りのエスカレータで1フロア戻って、衝動買いしてみた。
(その日は予算オーバーになったけど)

そもそも「現代思想」という書物が、どういうコンセプトなのかを、
自分は全く知らないわけなのだが、

今回号に関していえば、
「絶滅」という事象を、哲学、文学、歴史学、生物学、環境、産業、そして科学の立場から、
それぞれ語ってみた、という内容。

まるで門外漢なジャンルもあるので、
正直、読み飛ばした論文もあったのは事実だけど、

それにしても、特に文系の学者というのは、
絶滅というものをここまで他人事のように語れるものなのか、というのが正直な感想だった。

多少なりとも進化学を勉強した身とすれば、
地球史上の五大絶滅を考えると、気が重くなる(いろんな意味で)ものなのだが、

それを、カントが、とか、ヘーゲルが、とか言われても、
どうもしっくり来ない。

絶滅というのは、そういう思想や言葉をも拒絶するからこそ「絶滅」なのであって、
科学以外でアプローチが可能なのは、宗教ぐらいなものだろう。
(その意味でも、多くの宗教が終末論を含んでいることは、必然であろう)

つまり絶滅というのは一種の「特異点」なのであって、
ビッグバン同様、それ自身を記述することはできず、

我々の誕生前を語ることができないのと同じく、
我々の絶滅後を語ることもまたできない。
(禅でいうところの「父母未生以前の自己如何」というやつか)

ただ、ひとつ言えることは、
上に挙げたようなさまざまなジャンルの「言葉」によって、
絶滅そのものではなくても、その周縁を語ることは大いに可能なわけで、

もしもヒトが、(自らをも含めた)何らかの絶滅へ関与しているのであれば、
その軌道修正を促す希望は残されているということだ。

そして肝に銘じたいことは、
我々「ホモ・サピエンス」は、ヒト属唯一の生き残りであり、
自分たちもまた、遙か昔に、絶滅の危機を迎えたことがあったということ。

我々は、「絶滅」に対してあまりにも実感がなさすぎる。

たとえば、先日ここで紹介したこんな映画を観るだけでも、
「絶滅」の具体的なイメージが浮かぶはずである。