「彼岸過迄」(夏目 漱石)

 

漱石先生を読まなくなって、もう20年以上にもなる。

そろそろ読み直しておこうと、ピックアップしたのが、
「坑夫」「彼岸過迄」「行人」「明暗」。

その第一弾である。

敬太郎を主人とする前半までは、正直あまり深みのない、
「通俗小説」ともいえる内容である。

それが、須永と松本の独白となる後半になると、
内容が急に重くなり、漱石先生お得意の、仕事・生活・恋愛・結婚といった、
明治の知識階級にのしかかる日常の諸問題についての「文学」へと昇華する。

このような構成もさることながら、人物の描き方、語らせ方、文体など、
ところどころで唸らせてくれる。それだけで酒が飲める。

幼馴染の男女のすれ違いの恋愛を描いている部分は、
三島由紀夫の「春の雪」に非常に似ているわけだが、

あちらは人物の心情を複雑に弄びすぎて、若干狙いすぎな感じがするのに対し、
こちらはそれほどしつこくない。

そこに恋愛以外の要素をも絶妙な加減とバランスで織り交ぜて、
流石は我が国近代文学の第一人者である。

古びるどころか、なおもって新しい。

後半、僕の好きなフレーズがあって、
千代子との恋愛の駆け引きに疲れた須永が、女中の作の素朴な顔を見つめる場面で、こう語られる。

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僕は僕の前に坐っている作の姿を見て、
一筆がきの朝顔の様な気がした。
ただ貴い名家の手にならないのが遺憾であるが、
心の中はそう云う種類の画と同じく簡略に出来て上がっているとしか僕には受け取れなかった。
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「一筆がきの朝顔の様な」顔という表現は、できるようでできるものじゃない。
この場面に於いてそれ以外の比喩はないと思わしめてくれる。

しかもそのすぐ後に、「ただ貴い名家の手にならない」と付け加えているところが、なんとも心憎いではないか。

ところで、二人の主人公ともいえる、敬太郎と須永は、大学を出ても仕事に就いていない。

いわゆる「高等遊民」というわけでもなく、
就職活動に対しての悩みを抱えているあたり、現代の平成の世と大いに通じる部分がある気がしていて、

漱石作品を手がかりに明治と平成の社会を比較することで、
また別の面から現代を生きるヒントとすることができるのではないだろうか。

いまだからこそ、漱石先生はもっと注目されて然るべきだ。
そういう意味では、僕が読み直そうと思ったのも偶然ではないのかもしれない。