ホフマンのムル猫に続いて、
いよいよ本命の漱石先生の猫である。
たぶん読むのは3回目ぐらいのはずだが、
おそらくどれだけ読んでも面白さは格別で、
今回も満員電車で他人に体重を預けながら読み耽り、
途中で何度も笑いそうになった。
もしそのまま笑っていたら、
満員電車の中に、僕の周りだけはぽっかりと空間が生じていたことだろう。
しかし冷静によむと、小説としては奇妙な作品なのである。
第一、あらすじと呼ばれるものが皆無で、
場面もほとんどが、「主人」(苦沙弥先生)の家である。
主人の家に集まる、まさに変人だらけの珍客たちのやり取りを、
猫がシニカルに観察するという、
それだけといえば、ただそれだけの話なのだけれど、
自由奔放、闊達自在ともいえるその文章が、
時には軽妙さを、時には風格を与えていて、
それがたとえようもない奥深さを醸し出しているのである。
これは江戸文化を自らの背景に持ちながらも、
西洋学問を積極的に学び、古今東西の書物を読破した漱石先生だからこそ為せる業であり、
一見単純に思えるこの小説が、
実は他の誰にも書けない作品なのだという理由もここにある。
そういう意味で、この「猫」は、
デビュー作にして、最も漱石先生らしい作品という特別な地位を得ているといえるだろう。
思えば、猫の視点で人間世界の事柄を語るというのは、
書き手にとってラクな面もある。
一人称のまま、「文明というものは・・・」などと語れば、
それは単なるお堅い評論になってしまうし、
かといって、登場人物に語らせただけでは、
読み手の心にしっくりと入ってはこない。
作者がどの視点に立って物語を進行させるかというのは、
常に小説家の悩みの種なのである。
それを「猫」が観察し、語るというパターンを用いることで、
自然に語り、受け手にも納得させることができる。
つまり、猫に自らの立場を託すというのは、
作者が自由に語ることができる立場を得るためには、
欠かすことのできない手法だったわけだ。
(そんな離れ業をデビュー作でやってのける漱石先生は、まぁすごいとしか言いようがない。)
これは、古くから用いられてきた「ものがたり」や「浄るり」などの、
語り文学の伝統を継承しているのだとも考えられるのだが、
敢えてここではそれに深入りはしない。
ということで、「猫」シリーズの最後は、
漱石先生の弟子である百間先生に飾ってもらうことにしよう。