前半は、切れ字を中心とした俳句論。
切れ字というのは、
理解できるようでいて、なかなか分からない存在でもある。
切れ字が俳句の中でどのように機能し、
そしてその句の世界をどのように拡張していくのかを、
明快に分かりやすく説明している。
もちろん著者は俳句の専門家ではないのだが、
逆に、そうであるがゆえに、大胆な発言が時として核心を衝くのであり、
特に主客の関係性から俳句の成り立ちを述べるあたりは、
文芸のみならず、日本文化のツボをずばり言い当てていると思う。
後半は、著者の専門である言語をめぐるエッセイ。
ネット文化に囲まれて、言語体験が急激に変化している時代であるからこそ、
じっくり味わいたい珠玉の小論集である。
ところで、この本でも何度となく引用されている、
古池や 蛙飛び込む 水の音
という芭蕉の句であるが、
よくよく考えてみると不思議な句であることに気付いたので、ここに記しておく。
何が不思議なのかというと、
「蛙飛び込む」という視覚的情報と、「水の音」という聴覚的情報とは、
実は同時に知覚し得ないのではないだろうか、ということ。
蛙が池のほとりの石の上にじっとしている、
それを芭蕉が見つめている、
そしたら蛙がポチャン、と音をたてて池に飛び込んだ、
そういう解釈はもちろん可能である。
だがこれでは、俳句として何の味わいもないことは明らかである。
やはりこの俳句の解釈としては、
まず「水の音」が先にあって、それが何かとたずねるに、
それはなんと、「蛙」が「飛び込」んだからであった、
というのが正しいものであろう。
ここに大いなる謎があるのであって、なぜならば、
「水の音」がしてから池の方を見たのでは、
それが果たして「蛙」が「飛び込」んだ音なのか、
それとも柿の実が落ちた音なのか、
はたまた、近所の悪ガキが礫でも投げ込んだ音なのか、
分かるはずがないのである。
我々は、稲光が目に入ったあとで、それに遅れてカミナリを聞くわけだが、
この句はその逆で、まず「水の音」がするわけだから、
その「水の音」の原因となるべき実体(視覚情報)は、
とうに先に進んでしまっているはずなのだ。
けれども、この句は矛盾などまるでないかのごとく、
さらりと、視覚と聴覚とを同時の情報として、十七文字の中に封じ込める。
ここに芭蕉の、虚構をリアルに仕立てあげるテクニックの凄さがある。
我々は俳句と聞くと、直情をそのまま五・七・五にしたかのように捉えがちだが、
少なくとも芭蕉は違っていて、
一句を作り上げるのに、彼が何度も推敲を重ねたことはよく知られている。
そのことは、この「古池や・・・」のような、
いかにも即興で作られたような句が、実は大胆な虚構の痕をとどめていることからも、
知ることができるのである。
※しつこいが補足すると、
「水の音」に気付いて池の方を見たときには、
蛙はすでに水の中に潜っているか、
池の中央に向かって泳いでいることだろう。
しかも、小さな蛙が水の中にいる様子は、
よほどの至近距離でないと判別できないに違いない。
そうなると、詠み手がそのような状況を今か今かと待ち構えていたのでないかぎりは、
この句の状況を再現できないのである。
けれども、そのような解釈を受け入れる日本人は、おそらくいるまい。
やはりこの句は、相当手の込んだフィクションなのだと言わざるをえない。