6.
棺の中は、想像以上の息苦しさでした。
そもそもが、死人(しびと)のために作られているわけで、
自分のように、生きたままで入ることは想定されていませんから、
それもそのはずなのです。
それでも、隙間からわずかに漏れ入ってくる外気を吸いながら、
狭い闇の中で、じっと耐えていました。
数時間が数日にも感じられたころ、どうやら外が騒がしくなってきました。
犬丸がいなくなったことに気付いたのでしょう。
だとすれば、間もなく愛しい衣(きぬ)が、
周りの隙をうかがって、木刀を差し入れてくれるはずです。
愛しい妻の顔を、ひと目でも眺めることができれば、
それが何よりの励ましだと思いつつ、
しかし期待すればするほど、それまでの時間が間延びしていくようで、
いつまで経っても現れない衣に、徐々に不安と苛立ちを覚え始めました。
もうわずかでも待たされたら、本当に気が狂ってしまいそうになった頃、
棺の外で、かすかに聞きなれた声がしました。
「遅くなり、申し訳ありません。人目がありますゆえ、急ぎます。」
そう言ったかと思うと、棺の蓋が七~八寸ほど開いたのですが、
そこから差し込んできた行燈の明かりが、
まるで真夏の太陽のごとく、両目を貫きました。
思わず目を瞑った間に、木刀が差し入れられ、
衣の手がすばやく縄を緩めてゆきます。
私はこの機会を逃すまいと、眩しいのをこらえて目を見開き、
光の奥に愛しい妻の顔を見出したのですが、
そこにあったのは、私が期待していた妻の顔ではありませんでした。
いやもちろん、衣の顔には違いなかったのですが、
それはこちらが求めていたのとはほど遠い表情、
端的に言ってしまえば、愛する夫とのしばしの別れを惜しむ妻の表情ではなく、
もっとどろどろとした、覚悟のような決意のような、
とにかく私が、その意外さにぎょっとしているうちに、
棺の蓋は非情にも閉じられ、再び深い闇に取り残されました。
・・・何はともあれ、木刀も手に入ったし、縄も緩んだ・・・
あとは猿共を斬って衣の元に戻れば、
不安なんかすべて消し飛んでしまうに違いない・・
そう自分に言い聞かせ、このあと訪れるであろう修羅場に、
最大限の集中力を傾けることに専念したのです。
そこからまた何時間が経ったでしょうか。
もしかしたら、少しまどろんだかもしれません。
棺が動き始めたことに、ぼんやりとしていた意識が目覚めました。
ついに運ばれていくのです。
当初の予定では、おそらく数人に棺を担がれるのだろうと思っていたのですが、
どうやらそうではなく、縄のようなもので引っ張っているようです。
それも数人ではなく、もしかしたら一人なのではないかというぐらい、
弱々しい力で、少しずつ少しずつ地を這う振動が、
棺の底板越しに、背中に伝わってきました。
しばらくしてその振動が止まると、
またもや、すべてが静止した闇に戻りました。
社に到着したのでしょう。
ここからは、全神経を耳に集中させるのです。
大勢の猿どもが近づく音は、棺の中からでも聞こえるはず。
それがぎりぎりまで近づいたころを見計らって、
蓋を跳ね上げ、飛び出すのです。
手足の縄は完全に解きました。
まだ何の音もしません。
完全な静寂の中を、自分の鼻息だけが、わずかな空気を揺らしています。
・・・・・・
・・・・
ついに一番鶏の声が聞こえました。
猿共は夜に行動しますから、さすがにこれはどこかおかしいと感じまして、
思い切って蓋を蹴飛ばして外に出てみると、
あぁ、どうしたことでしょう・・・
そこは社ではなく、農具を置くための小屋でした。
騙された、と思うと同時に、嫌な予感がした自分は、
木刀を握りしめて、社へと一目散に駆け出しました。
まだ暗い山道を、何度も転びそうになりながら、
ようやく社が見えたとき、その扉が半開きになっていることに気付きました。
私は半狂乱になって駆け寄り、扉を押し破るようにして中に入ると、
あまりの光景にその場に座り込んでしまったのです。
そこは一面、血の海でした。
木の台のようなものの上に、腸(はらわた)が投げ出され、
眼球がひとつ、こちらを見つめるように転がっています。
あとは、むしり取られたような髪の毛の束が、
血に浸かって黒々と光っておりました。
そして台の脇には見覚えのある刀が・・・
それは確かに、以前自分が腰に差していて、
この地に着いたときに失くしていたものでした。
その刀が、鞘に半分収まった状態で置かれていました。
ここで何者かが、猿共の餌食になったことは明白でした。
刀を抜く余裕さえもなく、瞬時に襲われたのでありましょう。
しばらく呆然とし、ようやく気を取り直した自分は、
台の方へと歩み寄りました。
ふと台の下に目をやると、今まで見えなかったものが、
そこに落ちているのに気づきました。
それは木彫りの仏様でした。
すべてを悟った私は、その場に泣き崩れ、
我知らずのうちに、刀を手に取り、鞘を抜き放ちました。
そして、自らの片目を抉ったのです。」