新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
「万葉集」が最大かつ最高の和歌集であることは周知のとおりで、
この歌は、その「万葉集」収録の約4,500首の最後を飾る歌である。
正月を詠んだ和歌は山ほどあるけれど、
僕が自然と口ずさむのは、いつもこの家持の歌である。
その理由をあらためて考えてみると、
いろいろと魅力がみえてきた。
新しい年の最初の日、空からは雪が降っている、
その雪のように、今年は良いことが重なってほしい、
という、率直な感情をストレートに詠みこんだ歌で、
「の」の繰り返しが心地よいリズムを刻んでいる。
叙景を長い序詞にしている以外は、
特に技巧も用いられておらず、
たとえば、同じ「万葉集」の第一首めの雄略天皇の難解な歌や、
このあとに続く「古今和歌集」第一首めの、
同じく正月を詠った在原元方の機智に富んだ歌に比べると、
味気ないと思えてしまうぐらい、あっさりとした印象がある。
詠み手は、大伴家持。
おそらく、家持以外の誰かが、
「万葉集」責任編纂者の一人だった家持に敬意を表し、
彼のこの歌を大トリにもってきたのだろうが、
既に貴族としては没落の兆しを見せていた大伴氏の歴史を知っている我々としては、
その境遇と、これを詠んだときの心境を重ねることで、
少し物悲しい気持ちにもなってくる。
さて、この歌を口ずさんでみると、
とにかく「白一色」の風景が目に浮かぶ。
そして、まだ一年の雑事にまみれていない、
これもまた「まっさらな」New Yearである。
そんな強烈な「白」のイメージを前半すぎまで引きずりつつ、
「良いことが重なってほしい」と、
最終句にて突如心情を告白するこの歌は、
まさに和歌芸術の新しい方向性を決定づけているという意味で、
「万葉集」の最後を飾るにはふさわしいといえるだろう。
(けれど、紀貫之は「古今和歌集」冒頭で、
あえてこの流れには乗らずに変化球で勝負してきた)
よく、今年の目標は・・・、とか言うけれど、
目標をたてて、それに向かって何かをする、という自発的な生き方に対し、
「降り積もる雪のように、良いことが重なってほしい」などというのは、
他力本願で、無気力ともいえる人生観かもしれない。
家持がこの歌を詠んだのは、42歳のときなのだけれども、
すでに人生を達観しているかのような、潔さがある。
「万葉集」の歌は、総じてエネルギッシュなものが多いが、
最後がこのような歌で終わるというのは、
最終楽章がアダージョで終わるシンフォニーのような、
余韻を楽しませてくれる。
もちろん、最後に正月の歌をもってくることで、
永遠性・回帰性のようなものを意図していたことも間違いないと思うけれど。