百間先生との阿房列車の旅も、いよいよこれで最後となった。
この「第三」では、作家としての百間先生の凄味というか、
とにかくウマい、と思わせるフレーズがぎっしりである。
「いい加減の時にいい加減に寝て、
空中から垂れた褌(ふんどし)に頸を巻かれたような気がして、目をさました」(長崎阿房列車)
「後に旅館を開いてから、私なぞが遠い所をフリクエントする」(同上)
「小綬鶏かしら、と言ったが、小綬鶏はもっと声も節も荒い様に思う」(不知火阿房列車)
空中から垂れた褌に頸を巻かれる、なんて並大抵の想像力では書けないし、
同じ場所を頻繁に訪れることを「フリクエントする」とは、現代人以上の現代的な表現だし、
鳥の声の抑揚を「節」として、「声も節も荒い」などと書くのは抜群のリズム感だと思うし、
まぁとにかく、随所で唸らされることが多い文章の連続である。
気になった箇所もいくつかある。
「不知火阿房列車」で、
C51(機関車)の汽笛が、「単音」で珍しいと書いているが、
汽笛が和音なわけがないので、この「単音」というのは「短音」ことだとは思うが、
二か所も同じ字が用いられているので、
何か罠があるのでは、、と疑ってしまう。
けれど、ここで「おやっ」と思わせることで、
「短音」だろうが「単音」だろうが、機関車の汽笛のあの音を、
読者に想起させるには十分である。
同じく「不知火阿房列車」には、食堂車で見かけた自衛隊が、
帽子も脱がずに飯を食っている姿を見て、
珍しく、長々と不平を述べている箇所がある。
まぁそれでも最後は、「自衛隊君、著帽のままよろしくやり給え」となるわけで、
読んでいる側とすればホッとするような、
なんだか自分が説教されていたような気になるのが不思議である。
「第一」「第二」のときにも書いたように、
あらすじらしいあらすじは皆無である。
とにかく目的もなく旅をして、
不機嫌になったりご機嫌になったりしながら、ひたすら酒を飲む。
ただそれだけの作品なのではあるが、
とにかく文章が味わい深いのである。
読者も、まるで百閒先生の向かいに腰を掛けて、
列車の揺れを全身で感じるかのような、そんな贅沢な読書体験。
もしこの本を片手に、同じルートで旅をすることができたら、
どんなに素敵なことだろう。
だが、作品に登場する大半の列車は廃止になったり引退をしてしまっており、
スピードと効率を優先した現代の旅においては、
汽笛が「短音」なのか「単音」なのかの想像を許してくれるような贅沢は、
もはやなくなってしまった。