「日本文法体系」(藤井 貞和)

 

僕が大学で古典文学を学ぼうと思ったのは、
作品が、というよりも、とにかく文法が好きだったから。

苦にする受験生が多かった活用や接続なども覚えようとするまでもなく自然と身に着いたし、
いまだに古語辞典は、枕頭から離したくない存在でもある。

だからいまこうして、あらためて古典文法の本を読むと、
何をいまさら、という気持ちよりも、

懐かしい場所に帰ってきたというか、日々の仕事からの現実逃避とでもいおうか、
まぁ楽しくて仕方がない反面、

自分ならそこは違う説明をするのに、とか、もっとしっくりくる例文が他にもあるのに、とか、
そういう「おせっかい」な気持ちも出てきてしまう。

この本は、半分を助動詞(当書では「助動辞」とする)の説明にあてていて、
一見複雑そうに思われる古典助動詞の世界を、いかに包括的にとらえるか、
この書の狙いは、ズバリそこだといっても間違いではないだろう。

英語で現在完了(have+過去分詞形)というと、
「継続」だとか「経験」だとか、割と明確に意味を教えられるのだけれど、

古語の「つ」「ぬ」「たり」「り」といった「完了」の助動詞たちは、
そもそも「過去」(「き」・「けり」)とは何が違うのか、
そして四つの助動詞の意味的な違いはどこにあるのかということは、

専門家であっても即答するのは難しいだろうと思われる。

それもそのはずで、これらは既に姿を消した言葉であり、
古典作品という限られた世界の中に閉じ込められてしまっているわけだから、
現代の我々が100%理解しようとするには、ムリがある。

けれども、古典文法の面白さは実にここにあるのであって、
古典作品という状況証拠から、いかに真実を炙り出すことができるのか、
そういう推理的な楽しみがある。

そして僕はどうやら、そこに魅力を感じているらしい。

言葉の用法とは、発話者の心情を反映させているわけだから、
同じ気持ちを詠った和歌であっても、

ちょっとした助詞・助動詞の違いによって、
繊細な意味の差を表現することができる。

そのような違いに気付かずに、何となく文章を読んでしまうのか、
それともそういう醍醐味も残らずに堪能するのか、

古典文法に通じることは、読書の質を根本から変えてくれるのである。

古典の中でも「源氏物語」は、そのような読書に耐えうる最高の作品であって、
あらゆる場面が、細かな言葉の違いによって鮮やかに、かつ繊細に描き分けられる。

「源氏物語」は原文で読まなければ価値が半減するというのはこういう理由からで、
そういう意味では、この本の例文の大半が「源氏物語」から引用されているのは、
至極もっともであり、評価されるべき点だと思う。