「わたしの嫌いなクラシック」(鈴木 淳史)

 

「好き・嫌い」というのは、便利な表現方法である。

「良し・悪し」で物事を判断してしまうと、
今度はその判断自体が正しいかどうかの議論になってしまうけれど、

「好き・嫌い」というのは、
完全にその人の主観なので、誰も立ち入ることはできない。

ましてやそれが芸術分野のことになれば、
千差万別、十人十色、蓼食う虫も好き好き、というやつで、
何を好きだろうが嫌いだろうが、あぁ、そうですか、としか思わない。

そもそも、すべてが好き、などということはあり得ないわけで、

僕だって、音楽ならブルックナーとワーグナーは苦手だし、
絵画でいえば、ゴッホとピカソは面倒くさくて、

古典作家なら森鴎外と志賀直哉は読みたいと思わず、
酒もテキーラとジンは敢えて好まない、

てな具合に、好きなものがあるジャンルには、
反面キライなものもあってしかるべきなのである。

ただあくまでも、「好き・嫌い」というのは主観的な価値観なのだから、
その理由も個人的な問題であるべきであって、

この本の著者も最初はそれをことわっておきながら、
最後の章で、妙な文化論のようなものを持ち出して、
自分の「好き・嫌い」に対して、立派なな理由付けをしようとしたのが、
どうもいけない。

「好き・嫌い」なんて、どうせ大した理由じゃないし、
昨日まで嫌いだったものが、明日には好きになることだって、日常茶飯事で、
所詮、それぐらいのこと。

だからそこに文化論を無理やり持ち込まれても、
何だよ、今までの話は全部ウソだったのかよ!、と、
怒るとまではいかないまでも、ちょっとシラケ気味にはなる。

似非文化論の武装をしなければ「好き・嫌い」を語れないのであれば、
最初から語らなければいいのに。

ということで、僕はこの著者が、キライである。