僕は桜よりも梅が好きだ。
咲き誇る桜の「大雑把な美」よりも、
小ぶりな花と香りを楽しめる梅の「繊細な美」の方が、
しっくりくる。
元来、日本人にとっての「花」は梅の花であって、
桜を愛でるという風習は、
王朝貴族にとっての形骸化された美意識であり、
理想であり幻想であった。
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ということを、この本でも語ってくれるのかと思いきや、
まったくの期待外れ。
万葉から現代歌謡にいたるまでに表現された「桜」の解説を延々とするのみで、
「で、どうなの?」という部分には、全く触れられない。
かろうじて「あとがき」にて、言い訳がましく語られているのではあるが、
その内容も、桜の歌は軍国主義に利用されたから云々・・・と、
あぁ、やっぱりそう来ましたか、と読者としてはがっかりするほかない。
「桜」というこの上ない食材を使っておきながら、
結局出てきた料理が三流だったという、「看板に偽りアリ」の典型例。
中でも特に読むに堪えなかったのは、
宣長の歌に対する評価。
まぁ僕は、本居宣長という人は、どちらかといえばキライだし、
歌人としての才能は、世間の評判通り、ゼロに等しいと思っている。
著者の水原紫苑も、そうであることは知っているくせに、
あえて宣長の歌をたくさん取り上げ、
この歌は笑ってしまう、だとか、宣長はストーカーだったとか、
言いたい放題にけなしている。
かたや、西行や定家のことは手放しに褒めているわけで、
こういう態度を取る人が、軍国主義云々とか語る資格が果たしてあるのかと言われれば、
甚だ疑問である。
僕から言わせれば、定家の言葉遊びの歌などというものは、
もっと批判されて然るべきだと思うし、
そうすることで読み応えのある日本文化論を展開できるとも思うのだが、
なぜそうならずに、「歌人・宣長」イジメなどにページを割いてしまうのか・・・。
ということで、単に桜の歌の解説を読みたい人以外には、薦めらない本。