「太平記(二)」(岩波文庫版)

 

岩波文庫版の第二冊目は、いきなりアレグロで幕を開ける。

鎌倉方の総大将である足利尊氏が寝返って六波羅探題を滅ぼし、
東国では新田義貞が反旗を翻し、鎌倉攻めを行う。

序盤の圧巻は、かの有名な「番場の自害」。

光巌帝を連れて都落ちする鎌倉方が、
野武士に囲まれて集団切腹する場面、
その数432人、全員ではないが具に人名を挙げた後、

「血はその身を浸して、黄河の流れの如くなり。
死骸は庭に充ち満ちて、屠所の肉に異ならず。」

この作品の猟奇性の一面が垣間見れるシーンである。

そして義貞の鎌倉攻めの場面。

もはや意味もないと思えるような、鎌倉方の武士の死に様を、
ひとつひとつ克明に描いていくさまは、
「残酷」という言葉でも足りないぐらいに無残である。

そしてすべてを語りつくしたあと、
それまで客観に徹していた書き手の主観がふと顔を出す。

「於戯(ああ)、この日いかなる日かな。
元弘三年五月二十二日、平家九代の繁昌、片時に皆滅び果て、
源氏多年の愁訴を一朝に開きたることを得たりけり。」

確かに名文なのだけれど、名文であればあるほど、
その内容の血腥さが、読み手にまとわりついてくる。

「平家物語」をベースにしていると見受けられる箇所は多々あるのだが、
「平家物語」に見られるあの美学は、もはやここにはない。

それは戦闘場面に限らず、登場する武士たちの生き様自体にも言えることで、
そもそもなぜこの時代、斯様に戦乱が長引いたかといえば、
武士たちが「サラリーマン化」していたからではなかったか。

我々が「武士」と聞いて思い浮かべるような、
主従の結び付き、美しき忠義の心、などというものは、もはや存在しない。

描かれるのは、いかに生き延び、いかに報酬を貰うかという、
泥臭い人間ドラマである。

そしてそれは下級武士はもちろんのこと、
義貞や尊氏といった、大将クラスの武士であっても(いや、そうであるからこそ)顕著であって、

要は如何にして上司(=後醍醐帝)に気に入られて、
如何にしてライバルを蹴落とすか、
そしてそこにどうやって自分の部下を巻き込むか、

これはまさに現代のサラリーマン社会にそのまま読み替えることができて、
そういう意味でも非常に興味深い。

・・・・なので、第十五巻、尊氏が何度も自害しようとしながらも、
何とか九州へ逃げ延びて、そこで再起を図る・・・

というところまで読んで、
第一級のエンターテイメントには違いないけれども、
さすがに疲れたわけですよ。。読む方も。。。

たとえていえば、「ロードオブザリング」の三部作をイッキ見した感じ。

こっちはまだ半分以上残っていますが。。

なので少し「太平記」はお休みします。