「南総里見八犬伝」「源氏物語」、
そしてこの「太平記」は、長さ、スケールにおいて、
我が国の古典文学の中で群を遙かに抜いている。
「源氏」は学生時代に読破した。
「太平記」はようやくこれで読み終わったから、
残るは「八犬伝」。
これは老後の楽しみにとっておこうと思う。
岩波文庫版での完結となるこの第六冊は、
第三十七巻~第四十巻を収める。
一応は史実に基づくという立場をとっているため、
大著のエンディングとはいっても、特別なドラマがあるわけではない。
これまでに、歴史の、そして人生のあらゆる面を描いてきた作者にとって、
もはや語り残したものはないのであろう、
二代将軍義詮をはじめとする主要人物の最期を淡々と記し、
呆気ないほど静かに、幕を引く。
そして特に印象深いのが、第三十九巻、
かつて番場の戦場にて味方の五百人の自害を目の当たりにし、
自らも敵方に監禁された、北朝方の光巌院が、
すべてを棄てて仏門に入り、
諸国行脚ののちに吉野の南朝へと赴き、
後村上帝と涙ながらに対面したのち、
山へ籠って静かに身罷ってゆく。
その直前の、
「・・・身の安きを得る処、即ち心安し。
出づるに江湖あり。入るに山あり。
乾坤の外に逍遥して、破蒲団の上に光陰を送らせ給ひける・・・」
というのが、
あまりにも激しすぎる人生の呪縛から解き放たれたひとりの人間としての境地を、
端的に表している。
思えば「太平記」には、このような場面はほとんどなかった。
あらゆる人間が、欲と力と名誉の汚泥にまみれながら、死んでゆく。
ひたすらにそれを描くところに、
この作品の凄みがあるのも事実なのではあるが、
最後の最後で、この光巌院のくだりにきて、
読者は一種のカタルシスを味わうことになる。
これは「平家物語」の大原御幸と同様に、
渦中の人物にストーリーを回想させつつ、
物語を浄化し、エンディングを形成するという手法なのだろう。
「太平記」と「平家物語」の関係については、
もはや語り尽くされたかもしれないが、
ひとことで言うならば、
表裏一体、共通の主題による変奏曲と呼んでもよく、
それはまた、歴史は繰り返すという皮肉を実証するとともに、
日本の中世という閉鎖的かつ特殊な環境を浮き彫りにしている。
最後に、この「太平記」の世界観が、
江戸時代の政治・文化に与えた影響は甚大であったが、
それはまたあらためて語るとしよう。