去年からスタートしたらしい、「日本橋オペラ」。
特に日本橋(大阪ではなく、東京ね)であることの意味はないのだが、
日本橋公会堂という、およそオペラとは無縁の会場で、
無理矢理オペラをやってしまおう、という企画。
もちろんオーケストラ・ピットなどないので、オケも舞台に上げることになり、
そうなると、必然的に少人数でなくてはダメなので、
室内楽版での演奏となる。
まぁ要するに、小ぢんまりと、庶民的にオペラを楽しみましょうよ、
という企画でして、
去年が「トリスタンとイゾルデ」(!)で、今年が「トスカ」。
僕は、東海道線の「戸塚」を「トスカ」と聞き間違えてしまうぐらいのファンなので、
この日を楽しみに、足を運んでみた(大阪ではなく、東京ね)。
やはり音楽をやっていた身としては、
そもそも、室内楽版というのが、興味津々。
「ボエーム」とか「町長・・」ではなく、「蝶々夫人」ならまだしも、
「トスカ」となると、第一幕の「テ・デウム」がどうなるのか、、とか、
まるで自分事のように、期待と不安が入り混じった感覚になるわけです。
いよいよ幕が開いた。
舞台の上手にオケが陣取ってる。
vn×2、vla、vc、cb、fl、ob、cl、fg、hr×2、p、perc.
先にオケの話をしてしまうと、
この演奏は、実に大変だったと思う。
ほぼ1パート一人で弾くわけで、ごまかしは利かないし(当たり前だけど)、
より深い音楽的表現が求められるし、
演奏者にかかるプレッシャーは相当なものだったはずだけど、
お世辞抜きで、演奏は素晴らしかった。
ひとりひとりがソリスト級だったんじゃないかな。
それでいてアンサンブルとしてもまとまっていて、
ミスらしいミスもなく、とにかく美しい。最高。
指揮者の佐々木修氏の編曲の室内楽版だそうなのだが、
ピアノを効果的に使うことでここまでできるんだなぁ、と、
自らの音楽観を根底から揺るがされるような体験だった。
三味線一丁ですべてを表現するという、
浄るり音楽の手法をそのままオペラに持ち込んだというか、
日本式「もったいない思考」で、オーケストラを査定したみたら、
必要最低限のメンバーが残りましたというか、
なんだろう、最小限で最大限の効果を狙うという、
西洋式オーケストラとは逆の発想をオペラに持ち込むという大胆不敵な作戦で、
しかもそれが、成功しちゃってる。
いや、成功どころか、もしジャコモ・プッチーニ先生がこの演奏を聴いたとしたら、
間違いなく絶賛しただろうな・・・。
オケが室内楽になったことで、歌い手の表現により繊細なものが求められる。
今回でいえば、とくにスカルピア。
僕の大好きな「行け、トスカ」のアリアは、
フル・オケ版ではとにかく、威厳と迫力が求められるのだけれど、
今回の室内楽版での、繊細な表現、
これはもちろん、歌い手(斉木健詞)の素晴らしさもあり、
室内楽版ならではの醍醐味を楽しめた。
浄るり、という話をしたのだけれど、
やっぱり「トスカ」って、近松の世話物とすごく近い気がしていて、
室内楽版どころか、三味線と太夫で「トスカ」を語っても、
案外違和感なく聴ける気がするのだけれど、どうだろう。
さて、歌い手の方に話題を移すと、
とにかく、斉木健詞のスカルピアが素晴らしくて、
申し訳ないが、トスカもカラヴァドッシも影が薄くなってしまった。
でも、小貫岩夫のカラヴァドッシは、キライじゃなかった。
トスカの福田祥子は、まぁ・・・可もなく不可もなくというか。。
そもそも「トスカ」という作品は、
トスカ本人よりも、彼女の魅力に憑りつかれた男たちの悲劇がメインなわけで、
そういう意味では、スカルピアやカラヴァドッシが目立つというのは、
それはそれで正しいことなのかもしれない。
最後に、演出について一言。
第一幕から第三幕まで、常にマリア像が舞台中央に配置されていたのが、
とても印象深い。
よくよく考えてみれば、この作品ではそれぞれの登場人物が、
それぞれなりの解釈で、信仰心を口にする。
そこにはスカルピアのような「汚れた信仰心」もあるのだが、
それでも信仰心には違いないわけで、
単にメロドラマ的視点でこの作品を眺めるのではなく、もっと俯瞰的に、
時代や欲望に振り回される人間の「性(さが)」というような観点で「トスカ」を捉えたときに、
「常にそこにいましまするマリア像」というものが、
普遍的な価値を帯びてくるのではなかろうか。
もう一度繰り返すならば、この「日本橋オペラ」という企画は、
西洋の総合芸術であるオペラを、日本的文脈で再解釈するという試みでもあって、
これはオペラを庶民化する、という単純な目的にとどまるべきものではなく、
芸術形式、文化論にまでかかわる、兆発的なイベントだと思う。
来年も楽しみにしたい。