1909年兵庫県に生まれ、左翼運動に身を投じ、治安維持法により投獄された、
反体制の民俗学者・赤松啓介。
当然、彼の立場は「反・柳田民俗学」であり、
「赤松民俗学の特色は、百姓どものどてっ腹へ匕首を突っ込んで、これでもか、これでもかと掻き廻し、
ドロドロと血を吹き出させる土佐『絵金』の世界である」
という彼自身の言葉が、その何たるかを適確に表現している。
僕は民俗学専攻ではないので、
ここに書かれた内容が、「民俗学」として成立しているのかどうかは、よく分からない。
かつての田舎の風俗・風習を紹介しているだけで、
それが何を意味するのかという、帰納的な考察が若干欠けているような気もしなくはない。
しかしそこに込められた、
世間で持てはやされる学問や思想などというものは、
検閲を経たあとの「上澄み」であり、
人間の本来の姿は、その下に沈んだ濁った澱みの部分にあるのだ、
というメッセージは、読むものに強烈な衝撃を与える。
そう、まさに「絵金」の世界。
かつて僕自身も、高知の美術館で絵金の作品を観たとき、
広重や歌麿に慣らされていた浮世絵に対する価値観を、
大きく揺るがされたことを、鮮明に思い出す。
「AとはBである」
という価値観が出来上がってしまうと、
それを崩すことは容易なことではない。
けれどそれは、「AをBという意味でしか眺めえない」という、
近視眼的な物の見方につながる恐れが多分にある。
本来あるであろう「A´」や「B´」こそが、実は本質であるのかもしれず、
それを訴える赤松の文章は、
民主化という名のもとに押し付けられた戦後の価値観を、
そのまま鵜呑みにしては大変なことになるという、
現代社会への警鐘とも思えるのである。