藤原定家の息子に藤原為家がいて、
その3人の息子、為氏・為教・為相が、
それぞれ、二条家・京極家・冷泉家を名乗るようになり、
為兼は、上記為教の嫡男である。
藤原家の歌人といえば、かつて定家が、
「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」
という立場で、政治の表舞台からは一歩退いていた印象が強いが、
為兼は、上記藤原三家のドロドロとした争いに加え、
持明院統、大覚寺統の天皇家の対立や、鎌倉幕府との調整など、
むしろ政治家としてかなり積極的に活動していた人物であり、
佐渡・土佐への二度の配流は、その何よりの証拠であった。
さて、日本の和歌を学ぶにあたっては、
万葉、古今、新古今ときて、大抵の人はここで終わる。
だがその先に控える、玉葉・風雅の両和歌集の存在は決して無視できないものであり、
僕自身も、学生時代にこの両和歌集に出会わなければ、
和歌という文学のジャンルに、それほどには興味を示していなかったかもしれない。
玉葉・風雅、すなわちその代表歌人である為兼の和歌の特徴を一言で表現するならば、
感覚的・絵画的であり、
たとえるならば、やや行き詰りを見せていた西洋美術の歴史に、
印象派という一筋の光が射しこんだのと、同じぐらいのインパクトを持っている。
たとえば、この歌、
沈み果つる 入日のきはに あらわれぬ 霞める山の なほ奥の峰
山の稜線が夕陽によって霞んでいる様子は、
そのまま印象派の絵画のようで、
さらに結句に「なほ奥の峰」と続けることで、
この絵画はz軸方向の奥行をも確保している。
これは明らかに、それまでの和歌にはなかった新感覚である。
もう一首、
枝にもる 朝日の影のすくなきに 涼しさ深き 竹の奥かな
枝葉の間から光が漏れる様子は、同じくそのまま絵画的であり、
その光が少ないから涼しいのだとするのは、
当たり前ではあるが、これも今までの伝統にはなかった感覚である。
こんな歌もある。
大井川 はるかに見ゆる 橋の上に 行く人すごし 雨の夕暮れ
この歌の情景を想像すると、ある一枚の絵が思い浮かぶであろう。
そうゴッホが模写したことでも有名な、広重の「江戸百」の「新大橋」。
大井川と隅田川の違いはあるが、
もしかしたら広重はこの歌を念頭に置いて描いたのではないかという気までしてくる。
そして最後にこの歌。
ものとして 量り難しな よわき水に 重き舟しも 浮かぶと思へば
著者の土岐善麿は、中国の古典に典拠を求めているが、
そういきなり飛びついては面白くない。
歌の意味は極めて平易で、
なぜ舟(の材料の木材)は水よりも比重が大きいのに、水に浮かぶのか、
その理屈が分からない、と言っているわけで、
現象自体の面白さ、不思議さを素直に詠んでいると解釈してもよいし、
「弱い水」であっても重い舟を浮かべられるというのを、
弱者が強者に勝ることの比喩と捉えてもよい。
いずれにせよ、ここでは花鳥風月とは全く異なる、
物理的、科学的視点を導入したところに、新奇性が感じられるのである。
(実際のところ、舟がなぜ水に浮かぶのかを、
子供でも理解ができるように正確に述べることは難しい)
為兼をはじめとする京極派歌人たちの切り拓いた新しい歌風は、
そのまま近代短歌の世界につながるものではあるが、
逆にいえば、近代にいたるまでの以後数百年間、
和歌が暗黒の時代に入ったことも事実である。
だがいずれにせよ、我が国の文学史における京極派和歌の価値は、
一部の研究者を除いては、正当に評価されているとは思えず、
上で紹介したような、すぐれた感覚を表現している数々の作品について、
広く世間に知らしめていくことも、
研究者たちの責務なのではあるまいかと思っている。