電車の窓からふと外を見ると、
住宅街の真ん中に墓地があることも、最近では珍しいことではなくなった。
(というか、墓地の周りに住宅地が浸食してきたと言う方が正しいか)

けれども、それが「神聖なるもの」であれ、「穢れ」であれ、
やはり死と我々の日常との間には、
厳然たる境界線があることには疑いがない。

それが証拠に、いくら親しい人ではあっても、
その人の亡骸を、家の庭やベランダに葬ろうなどと考える人は皆無であろう。

死体を、生者の日常の場から隔離しようという風習は決して新しいものではない。

100万年以上前の初期人類の頃から、
死体を、生活の場から離れた穴に葬っていた(あるいは「捨てた」)ことは、
遺跡から明らかである。

火葬は、もちろん宗教と結びついた葬儀ではあるけれども、
元をただせば、残されたものの日常から、すばやく死体を隔離するということに、
主眼があったのではなかろうか。

また、我が国の古い文献でも、墓自体は家の庭に作るが、
そこには仏様はいらっしゃらず、
遺体は村から遠く離れた場所に埋めていた、という記録が見られる。

なぜ我々人類には、あまねく「死体を隔離する」という発想が根付いているのか。

それを宗教や死生観と結び付けるのは簡単ではあるが、
そこにはもっと現実的な理由があろう。

たとえば、死体は腐りやすいということ。
悪臭を放つし、衛生上よろしくないから生活の場から遠ざける、
それもあるだろう。

また、初期人類の遺骨からは共食いの形跡も見られることから、
死体を食べることを避けるために、
遠い地に埋めたということも考えられる。

共食いを避けたのは、
心理的な問題かあるいは単に衛生上の問題であるかもしれない。

そして個人的に一番大きい理由だと思われるのは、
肉食獣による捕食を避けるためだったということだ。

日本でも明治時代に、
一家がオオカミによって皆殺しにされたという記録があるように、

先進国においても、ごく最近までは、
肉食獣がヒトの生活圏に入ってくるのは珍しいことではなかった。

ましてや、100万年前のアフリカに暮らしていた我々の祖先のことを考えてみれば、
日々の生活が、文字通り「命がけ」であったことは想像に難くなく、
昼も夜も、肉食獣の遠吠えや足音に怯えていたことであろう。

そんな状況の中で、自分たちが暮らす洞窟のすぐ近くに、
死体を放置したらどうなるだろうか。

それは獰猛な獣たちをおびき寄せる恰好の「エサ」となるわけで、
死体が喰われることはもちろん、生者たちも皆殺しにされる危険性が極めて高い。

であれば、死体を捨てる場所は、洞窟から遠ければ遠いほどよい。

かつ、肉食獣たちに「ヒトの味」を覚えさせないために、
埋めておく必要がある。

埋葬の起源というのは、実はここにあるのではないかと思う。

初期人類の副葬品の中には、石斧などの武器が見つかることもある。

これは「霊界への旅路のお守り」のような観念的なものではなく、
万が一肉食獣に死体を掘り返されたときに、
「反撃するためのお守り」だったのではないだろうか。

ヒトの歴史を考えるとき、
我々はつい、脳の容量がどれだけ増えたとか、
いつから言葉を使ったとか、道具がどうだとか、
「ヒト自身」のことにのみ、興味を向けがちである。

しかしながら、初期のヒトは「野生のサバイバー」だったのであり、
他の動物たちと、喰うか喰われるかの中でしのぎを削っていたのである。

そのような「サバイバル環境」を前提としてみたときに、
上で述べたような埋葬の習慣のみならず、
言葉や道具・火の使用や、あるいは音楽や芸術が、

いかなる必要性に駆られて生まれてきたかについて想像をすることが、
文化を考える上で、極めて重要なのではないかと思う次第である。