「日航機123便墜落 最後の証言」(堀越 豊裕)

 

日航機墜落事故については、
いまだにネットやマスコミで採り上げられることが多く、
自分も少し気になっていたので、この本を手にしてみた。

おそらくこの本が、同じ事故を扱った他の書物と決定的に違う点は、
当時の米国の関係者に徹底的に取材することで、
この事件の、日本ではあまり語られてこなかった一面を示せていることだろう。

そこには、当時のボーイング社の社長や、
NTSB(米運輸安全委員会)の担当官、
そしてあの「ハドソン川の奇跡」の機長なども含まれ、

事故当時、そして現在彼らが思うこと、
また、あの事故は防げたのかどうか、
どのような危機管理が必要なのか、といったことの明晰なレポートとなっている。

それは米国勤務が長い著者だからこそ、可能だったのだろう。

この本を読んで、あの大事故について僕が思ったことは、下記の3点。

1.日本の「お役所体質」の甘さ
事故が起きてすぐに、米国からNTSBの担当官らも現地入りしており、
彼らはほどなく、原因がボーイング社の修理ミスによる隔壁の破損であることを見抜いている。

そしてそのことを、日本の事故調査委員にも教示しているのだが、
日本側はプライドからか、米国の報告には耳を貸さなかったのだという。

そればかりか、日本は、
政府、警察、自衛隊、消防、日航という「関係各所」が、
お互いを牽制・忖度し、すべての対応が後手後手に回ってしまったのだ。

このような「お役所体質」は、
当時よりは改善されているであろうが、
未だに日本社会に根強く残るものであり、

もしそれがなければ、
もしかしたら救える命もあったのかもしれない。

2.事故についての日米間の考え方の違い
米国や欧州では、故意に犯したのではないミスについては、
個人への刑事責任を追及しない。

むしろ、「なぜそのようなミスが起きたのか」を
しっかりと把握することで、次のミスを防ぐという発想だ。

だが日本は違う。

この事故のときも、警察は「業務上過失致死」での立件をすることに血眼になった。

なので肝心のボーイング社員からも聴取ができず、
原因究明が遅れ、曖昧な部分が残ってしまう結果となった。

故意ではないミスを犯した人間に刑事責任を負わせることで、
失われた命が帰ってくるわけでもない。

この事故の場合に限らず、
刑法の在り方が問われるのかもしれない。

3.乗員の危機マネージメント
事故当時の機長と副機長の会話のやり取りは、
ネット等でも聞くことができる。

僕は初めてそれを聞いたときに、ものすごい違和感を感じた。

当時操縦をしていたのは副機長だったわけだが、
機長は自分で操縦を替わることもなく、
ただ隣で副機長を叱咤激励、
ときには彼の意見を否定するようなことも言っている。

これは典型的な、日本社会の上司と部下だな、と思った。

「ハドソン川の奇跡」のケースでは、エンジン停止後、
機長は「これは私の飛行機である」、副機長は「これはあなたの飛行機です」と言い、
すぐに操縦を機長が替わっている。

いざというときには、
行動を以て示すのが機長としての任務であり、危機管理だと思う。

それが日航機の場合は、
残念ながら、上司に怒鳴れ委縮している部下の姿を想像させてしまうのである。

 

以上、長くなったが、
あの事故についてはもちろんのこと、
日本の社会の在り方について考えさせられることが多く、
まさにジャーナリズムとはかくあるべき、という良書だと思う。

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