1485年、美濃国の郡上を出発した尭恵上人が、
北陸に出て柏崎から草津・伊香保へ南下、
武蔵野を巡ったのちに鎌倉を訪れ、
帰路ふたたび越後に入ったところで終わる紀行文である。
文章が全体的に平易で読み易く、
そして何よりも、隅田川、鳥越、湯島、中野、鎌倉、江の島といった、
東京生まれの自分が何度も訪れた土地(中野は僕の地元だけれど)についての記述が、
とにかく興味深い。
最近仕事で、武蔵野線経由で埼玉県北部まで行くことが多く、
これぞまさに武蔵野、という光景を目にしながら、
この歌枕は昔からあまり変わっていないんだろうな、
などと思っているわけだが、
『北国紀行』には、このように記されている。
十二月の半ばに武蔵国へ移りぬ。
曙をこめて庁の鼻といふ所をおき、
行方も知らぬ枯野を駒にまかせて過ぎ侍るに、
幾千里ともなく霜にくもりて、
空は朝日の隈もなくさしあがりたる風景、
肝に銘じ侍しかば、朝日影 空は曇らで 冬草の 霜に霞める 武蔵野の原
「庁の鼻」というのは今の深谷市付近らしい。
そして湯島については、
湯嶋といふ所あり。
古松遙かにめぐりて注連の中に武蔵野の遠望をかけたるに、
遠村の道すがら野梅盛(さかん)に薫ず。
これは北野の御神と聞きしかば、忘れずは 東風吹きむすべ都まで 遠くしめのの 袖の梅が香
言うまでもなく、道真公の「東風吹かば~」を本歌取りしているわけだが、
歌の出来映えはなかなか悪くないし、
今はあのがやがやとした湯島界隈ではあるが、
何となくここに書かれているような情景が想像できるようでもある。
そして我が生まれし中野の地については、
武蔵野のうち、中野といふ所に平重俊といへるが催しによりて、
べうべうたる朝霞を分入て瞻望するに、
何の草葉の末にも唯白雲のみかかれるを限りと思ひて、
と記されているだけなのだが、
簡潔な表現の中にも、
当時としては何もない武蔵野の光景が目に浮かぶようだ。