枕詞の真相に迫ろうとすると、
必然的に語源論にならざるを得ない。
そして語源を追究するにおいては、
文献に頼らざるを得ず、
しかも肝心要のその文献が、
ある時代以前には極めて乏しい、
という状況であることが、
ある程度の想像力を必要とし、
また、ある程度の想像が、
許容される原因となっているわけなのだが、
その想像の許容にも、
限度というものがある。
例えば、
ある年代以前のヒトの化石が見つからない、
という事実を以て、
すなわちヒトは宇宙人によって創られたのだ、
と想像することは、
あまりにも無理がありすぎるのと同じだ。
もちろん想像である以上、
何を考えても個人の自由ではあるが、
しかし、先人の研究を否定してまで、
自らの想像を是としようとする態度は、
不快以外の何物でもない。
この本の著者の態度がまさにそれで、
枕詞に関する過去のあらゆる研究成果を、
無理がある、意味をなさない、
と勢いよく否定し、
自らのトンデモ論を、
それ以外にはあり得ない、
そうであると言わざるを得ない、
と、まるで勧誘商法さながらの口調で、
読者をたらし込もうとしている。
日本語の膠着語という特徴を逆手にとり、
まるでパズルのように、
言葉の分解・組み立てを行うことで、
如何にももっともらしい、
語源論を形成していくのである。
例えば、「草枕」について説明している箇所、
「草枕」は、重箱読みすると「さまくら」と訓める。
その語音に結びつく語句として、
<ところ定めずあるく・さすらいあるく>
意の動詞【さ迷う・彷徨う】と、
【暮らす】が複合した【さ迷い暮らす】が引き出せる。
歌句として常用されるに及び、
七音節から五音節の「さまくら」に変じたものであろう。
などと述べているが、
この文面をそのまま受け取るのであれば、
(そもそもなぜ「草枕」が「さまくら」になったのかはさておき)
「さまくら」→「さまよう」+「暮らす」
と「引き出」したうえで、
それが「『さまくら』に変じた」、
と言っているわけで、
これは、すなわち、
鳥は卵から生まれたように思われる、
だから卵から鳥が生じたのだ、
という意味不明なループにすぎないことは、
一目瞭然だろう。
百歩譲ってその論理に乗ったとして、
「さ迷い暮らす」が、
どう語形変化して「さまくら」になるのか、
他の事例をもってロジカルに説明すべきなのだが、
そういうことは一切なく、
すべては同様のこじづけで、
多くの枕詞を説明しようとしているのは、
もはや呆れを通り越して、
感心してしまうほどである。
繰り返すが、
それを単に想像として語るだけであれば、
読む側もオカルトとして捉えるだけなので、
何の問題もないのだが、
過去のあらゆる研究を否定し、
さも自説のみが正しいとする、
その押し付けがましさというか厚顔無恥が、
有害としかいいようがない。