本のタイトルからは、
想像できないけれど、
「狂帝」と呼ばれた、
平城・陽成・冷泉・花山、
の4人の天皇について、
彼等は本当に「狂帝」だったのか?
実はそうではなく、
その裏には歴史の操作が、
あったのではないか?
について論じた本。
古今東西「狂帝」と呼ばれた、
支配者はそれなりにいる。
ただし、そこには、
下記の問題がある。
1.歴史が伝える「狂帝」の行動は、
果たして真実なのか?
2.仮に彼らの行動が事実だった場合、
それは「狂帝」と呼べるレベルなのか?
そもそも、
心の病というものは、
明確な診断が難しい。
ある人にとっては、
「まぁ、やんちゃだね」
と見える行為が、
ある人にとっては、
「あいつは気が病んでいるのではないか」
と思えてしまう。
だから、
上記の「2」において、
たとえば、その支配者が、
無実の市民を、
意味もなく虐殺したとしたら、
それは間違いなく「狂帝」と、
呼んでもいいだろうが、
しかし、たとえば、
まだ未成年の天皇が、
宮中で馬を乗り回して、
皆をあきれさせた、
みたいな行為は、
果たして、
精神的な病のゆえであると、
断定できるかどうかは、
疑わしい。
ここで、
この本の内容に戻ってみると、
平城・陽成・冷泉・花山という、
4人の天皇(上皇・法皇)が、
取った数々の行動を、
多くの文献から引用して、
細かく紹介しているわけだが、
たとえばそれらが、
史実であったとしても、
多少奇異ではあるかもしれないが、
「狂帝」と呼ばれるレベルには、
程遠いように思われる、
というのが、
著者の意見である。
著者はそのことについて、
すべては歴史を「作った側」、
つまり時の権力者、
もっといえば藤原摂関家による、
皇統操作のための、
フェイクストーリーだったと、
強く主張する。
要するに、
藤原摂関家は、
自らが外戚となり得る、
天皇を即位させるために、
邪魔な系統の天皇を、
あらゆる方法で排除してきた。
その理由として用いたのが、
「あの帝は狂帝だった。
ゆえに、退位していただかざるを得ない」
という、
まぁ、いつの時代でも、
悪党な政治家が使いそうな発想でもって、
それを正史へ記録した。
さらにそれを読んだ後世の者たちが、
尾ひれ背びれを付けて説話を著し、
誇張された形で人口に膾炙してゆく、
という流れである。
この著者の主張には、
確かに一理ある。
ただ敢えて、
反論させていただくならば、
著者は、基本的に、
彼等4人の行動を、
決して「狂帝」と呼ぶレベルではないし、
大部分は史実ですらない、
と決めつけているが、
たとえそれが藤原氏の画策であっても、
火のないところに煙は立たぬ、ではないが、
「狂帝」とまではいかぬまでも、
多少の常軌を逸した性格の持ち主で、
あったのではなかろうか。
※そういう意味では、
後白河とか後醍醐とか、
見方によっては昭和天皇でさえ、
常軌を逸していたと、
言えなくもない。
とういうことで、
まとめ。
著者の主張が、
すべて正しいとは思えないが、
歴史というものは、
常に権力者によって作られるのであり、
自らを正当化するための手段として、
「狂帝」という存在を、
でっち上げた可能性は、
大いにあると思われる。
それに限らず、
権力者による「フェイクストーリー」と、
いかに向き合うかが、
歴史や古典を学ぶ者の姿勢として、
問われるのだろう。
いや、これは現代の、
政治家・マスコミによる、
「フェイク情報」に対しても、
同様かもしれない。