そもそも大学で日本語日本文学などという、
およそ飯の種にもならないようなものを学んだのも、
日本語に対する興味と愛着があったからで、
(日本人なら当然かもしれないが・・)
それは今も変わらぬどころかむしろ強まっており、
一方で、音楽に対する情熱と、
音楽とは言葉と表裏一体であるという自論があって、
浄瑠璃を習い始めたのも、
そんな音楽と言葉の関係性を追究したいという思いが理由のひとつだったりする。
音楽を好きな者であるからこそ、
西洋音楽と日本の音楽はなぜここまで違うのか、その原因は何なのか、ということを、
あれこれ考えたくなってくる。
しかしそれは、西洋文学と日本文学はなぜこんなに違うのか、
「源氏物語」と「神曲」はなぜ異なるのか、というのと同じことで、
結局は、そもそも西洋語と日本語が似ても似つかぬものであるように、
まったく違うものだと割り切ってしまうのも、正しいアプローチなのだと思っている。
この本でも取り上げられている、
古池や蛙飛び込む水の音
閑けさや岩にしみ入る蝉の声
という、「日本的な音」を詠んだ芭蕉にしたところで、
西洋的な音との対比を考えながら、この句をひねり出したわけではない。
違うものは、違うのである。
であれば、その違いをとことん楽しめばいい。
日本酒とワインはなぜ違うんだろう、、などと深く考えていては、酒はマズくなる。
面白いことが書いてあった。
日本の音楽はほとんどが二拍子なのだけれど、
「なむ・あみ・だー なむ・あみ・だー」
「なむみょー・ほうれん・げきょー」
というお経は三拍子だというのである。成程。
義太夫節に三拍子のフレーズはあるのかどうか、師匠に尋ねてみたところ、
ごくわずかながら、あるのだという。
けれどマイノリティには違いない。
西洋との比較云々は抜きにしても、
なぜ邦楽に三拍子が極端に少なく、なぜお経の核フレーズに三拍子が現れるのか、
この問題はすこぶる興味深い。
音楽と言葉、結局はどちらも身体性に関わるものなのであって、
その点において、この本はいろいろと示唆を与えてくれる。
そういえば、文楽の人形は三人で扱うが、
あれなんかは、身体性が顕現した最たるものであろう。
ましてや、そこに語りと三味線の身体性が加わるのであるから、
やはり芸術の基本は身体(からだ)なのである。