まぁ特に柳田國男の著作を多く読んでいるわけではないし、
まして柳田民俗学の信者でもないから、率直に意見を書くと、
何とも文章がまわりくどく、そして牽強付会がかなり目立つ。

二行で済むものを五行で、二頁で済むものを五頁で語ろうとするから、
話の筋道があっちへ行ったりこっちへ戻ったり、
結局何が言いたいのかよく分からなくなってくる。

牽強付会ということならば、「涕泣史談」の中で、

泣くことのうちには「かなしみ」がある。
そして「かなしみ」とは「哀」「悲」だけではなく、広く感情を動かされることを意味していた、

というようなことを述べたあとで、

「ともかくも泣くことをことごとく人間の不幸の表示として、
忌み嫌いまたは聴くまいとしたことは、
全くこの『かなしみ』という語の漢訳の誤りがもとであった」

と結論づけるのである。

時代を下るにつけ、泣くことへのネガティブな印象が強くなったことは事実だろうが、
それが果たして、「『かなしみ』という語の漢訳の誤り」というレベルのものが原因であると、
なぜ断言できるのか。

もちろん柳田のすべての著作がこんな感じではないのは分かっているが、
殊にこの「不幸なる藝術」に収められた数編には、
このような傾向が目立つ気がする。

嘘、笑い、泣き、といった現代ではあまり良くないイメージがある行動が、
歴史や文学の中でどのように変遷してきたか、
というのはかなり鋭い着眼点ではあるのだけれど、

上述のように自ら結論を狭めるような箇所があるため、
残念ながら、新鮮な展開にはなってゆかない。

かつては嘘を付くことを専業としていたものがいた、などというのは、
文化史的にかなり興味深い発想だと思うのだけれど、

勿体ないことに、そこから民俗芸能史へ踏み込むことはせずに、
現代の文学は、身の回りのことをあからさまに書きすぎる、
自然主義文学など論外である、などと、あらぬ方向へと突き進んでしまう。

そういう偏屈なところまで含めて、柳田民俗学というのは楽しむべきなのだろうけれど、
残念ながら、いまの僕にはそれに付き合う余裕がないということだろう。