古今東西の「書」(book)について、自由気儘に綴ったエッセイ。
読書という行為は、
もちろん知識を得たいという欲求からの場合が多いのだが、
気が付いたら読書それ自身が目的になっているというか、
たとえるならば、
眠るために羊の数を数えていたら、
いつのまにか羊を数えることに夢中になっていた、みたいな、
そんな「中毒性」が読書にはある。
(ちなみに本のタイトルにある「羊」は、
『荘子』に出てくる「読書亡羊」からとったもので、眠れぬ夜の羊とは関係がない。)
常々思うには、本という存在はそれ自身では特にどうということはないのだが、
どんな人がどんな風に読むのか、
その文脈があって、初めて本は本たり得る。
だから本を読むというのは、
作者と、そして見ず知らずの読者たちとの「知の共有」であり、
そのネットワークが文化というものを形作っていくのではないだろうか。
考え方や思想を他人と共有するには、
現代であれば映像を始め様々なメディアで可能ではあるが、
寸分漏らさず人から人へ伝えていくには、
やはり文章を用いるのが一番であろう。
「本があって、人がいる」のではなく、
「人がいて、本がある」のであって、
そのことをこの本は魅力たっぷりに伝えてくれている。