たしか今年の2月ぐらいから読み始めた気がするので、
かれこれ半年以上、
就寝前とかに時間を見つけて、ちびちびと読み進め、
ようやく読了した。
言わずと知れた『西遊記』のモデルともなった玄奘の旅行記なのだが、
肩すかしを喰らったというか、
どうやら大きな勘違いをしていたことに途中で気付いた。
いくら中国側の許可証があったといっても、
中国からインドまでの陸路の道のりは、
砂漠、山脈、密林、猛獣、山賊、野盗、異教徒・・・
などなど、玄奘が命に危険を感じた回数は、
おそらく何十回、いや何百回にものぼったかもしれない。
が、である。
この『大唐西域記』には、いっさい「私」が登場しないのだ。
例えば、マルコ・ポーロの『東方見聞録』は、
自分が見聞きしたことを著述する、いわゆる「旅行記」なのだが、
こちらはそうではない。
途中で通過した各国の風俗や言語を事細かに記したのが半分、
そしてインドに入ってからは、その地に伝えられる仏教の伝説や歴史の紹介が半分。
要するに『大唐西域記』は、「旅行記」ではなく、
「地理書」あるいは「歴史書」の類なのだ。
なので、7世紀当時の中央アジア~インドを記した「資料」としては一級品の価値があるが、
逆に、僕のように文学的興味を持って読み始めると、
最後まで「何も起こらずに」終わってしまうことになる。
その理由は巻末の解説を読んで明らかになった。
どうやら玄奘は、最初は『大唐西域記』など残すつもりはなかったらしい。
中国に帰国してからの玄奘は、
持ち帰った大量の経典類の翻訳で、それどころではなかった。
けれども皇帝にしてみれば、
中国と国境を接する国々の様子を知るにはまたとないチャンスである。
そこで玄奘に命じて、
彼が見聞きした貴重な情報を漏らさず記録させたというわけだ。
(実際に筆をとったのは玄奘本人ではなく、彼のメモなどを元にして弟子が執筆した)
『大唐西域記』の作品の性質はともかく、
7世紀の初め、我が国ではまだ豪族同士が無益な争いをしていた時代に、
お隣の中国では、玄奘のようなインターナショナルな感覚をもった天才が、
苦労をかえりみずに行動を取ったという事実に驚かされる。
しかも誰かの命令ではなく、
むしろ皇帝の反対を押し切っての、自らの決断である。
そういう背景を知っているからこそ逆に、
『大唐西域記』の「滅私」の態度に意外性を感じてしまうのだろう。
往復陸路、およそ17年間の旅だった。