助詞「は」というのは、
日本語の文法の中でなんとも厄介な存在ということで知られている。

というのも、

僕は、哺乳類だ

というときは、「は」は主語を成しているようにも見えるし、

象は、鼻が、長い

というときは、長いもの、
すなわちこのセンテンスの主語は「鼻」であって、「象」ではない。

この場合の「は」は、
「象についていえば」という、話題の提示という役割になる。

では次の例はどうだろう。

僕は、ウソが、嫌いだ。

「象は鼻が長い」というセンテンスと形式は似ているけれども、
「嫌い」なのは「僕」なんだから、
この場合の「は」は主語を成しているようにも見える。

けれども実は「嫌い」という形容(動)詞の性質にも問題があるのであって、
形容(動)詞である以上、それはモノの性質を表すのであれば、

「嫌い」というのはすなわち、
「嫌われるような性質を持っている」ということで、
その場合の主語は、やはり「ウソ」になる。

つまり解釈すると、

僕についていえば、
ウソというものが、嫌われる性質をもっている

となるので、
やはり「僕はウソが嫌いだ」における「は」も、
主語を成しているとは言い難い。

けれども更に厄介なことに、

僕は、ウソを、嫌っている。

とすれば、この「は」は主語であると見えなくもない。

ただ、本来形容(動)詞である「嫌い」を、
無理やり(西洋語風に)動詞として用いている点で、
自然な日本語だとは言えない気もする。

さて、「は」について考えるとき、
かの有名な小野小町の和歌に思い当たる。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

初句は、「花の色」としても十分意味が通じるばかりか、
五音であることを考えれば、
むしろ「花の色」とした方が自然なのではないだろうか?

ではなぜ、小野小町は、敢えて字余りをおかしてまで、
「は」を付けることにしたのだろうか・・?

こう考える。

花の色 うつりにけりな いたづらに・・・

としてしまうと、

「花の色」(主語)-「うつる」(述語)

という関係が明確になりすぎてしまう。

たとえそうであってもこれが名歌であることには違いなかろうが、

それでは小町の感性が許せなかったのだろう、
敢えて「は」を挿入することで、そこに余韻というか、
感嘆の気持ちを持たせることにしたのではないだろうか。

この「余韻をもたせる」というのも、
「は」の不思議な性質の一つで、

きれいだね、桜の花が。

というよりも、

きれいだね、桜の花は。

という方が、
感情の込め具合が明らかであることは言うまでもない。

このような「は」の性質を考えると、
古くからある、「は」は係助詞か副助詞かという論争は、

副助詞の方に軍配が上がる気もするが、
そこは分類好きの国語学者にお任せしよう。

それにしても注目すべきは、
この繊細な「は」の用法を、
小野小町がいかにも自然に使い分けている点である。
(実は他にも例が多くなるのかもしれないけれども、調べられておらず・・・)

小町の歌は初句にこの「は」を用いることによって、
おそらく世間に知られている以上の価値を持っていると考えるのは、
自分だけだろうか。

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