旧大社駅と出雲大社前駅の間に、大きな鳥居がある。
大正時代に出来たもので、当時は日本一の高さだったとか。
再び出雲大社前駅を通りすぎ、
両側にお土産屋の並んだ緩い坂道を登っていくと、
5分ほどでいよいよ出雲大社だ。
心を清めて一礼し、鳥居をくぐると、
意外にも参道が、結構急な下り坂。
国引き神話をモチーフにしたモニュメントがある。
とにかくデカい。何もかもデカい。
境内のいたるところに祠が散在しており、
それぞれ古代の神話に登場する神を祀っている。
そしていよいよ本殿なのだが、
残念ながら近づけないので、柵の外から拝むしかない。
あまりの大きさにうさぎも驚いています。
近世になってから、高さが8丈(24メートル)になったそうだが、
それまでは倍の16丈あったというから、
驚異的な大きさだ。
印象としては、神社というよりも、まさに神殿。
本殿は南に面しているが、
中に鎮座しているオオクニヌシは実は西を向いていると、
団体客のガイドが話しているのを聞き、
やはり出雲の支配層は大陸から海を渡ってきたのだと、
確信した。
(あとで出てくるが、西に行くとすぐ海に出る)
僕の考えでは、「オオクニヌシ」とされている支配者が、
中国か朝鮮半島からこの出雲の国に渡来し、
支配者として巨大な神殿(出雲大社)を築いた。
ただそうなると、当然ヤマト政権と対立をするわけで、
オオクニヌシの国譲りだとか、スサノヲの出雲での伝説だとかは、
まさにヤマトと出雲の抗争と服従の歴史を暗示しているのであろう。
『記紀』では、
オオクニヌシはスサノヲの息子だが孫だかにされているが、
『出雲国風土記』ではそのような記述はなく、
それどころか、スサノヲはわずかに名前が出てくるのみであって、
つまりヤマト側の『記紀』と、
出雲側の『出雲国風土記』との歴史記述のズレが、
両勢力の関係を物語っているのではなかろうか。
これは余談なのだが、
このあと松江の足湯で疲れを癒していたときに、
地元の老人が、隣に座っていた旅行者の女性と話をしており、
その女性が「広島から来た」と言ったときに、
老人が小声で「ヤマトの人だな」と呟いたのを聞き逃さなかった。
もしかしたら、いまだに出雲の人にはヤマトに対する、
心理的なわだかまりがあるのかもしれない。
昼食は名物の「出雲そば」をいただき、
オオクニヌシの対面する西へ向かう。
途中にあった、出雲といえばこの方も忘れてはならぬ、
出雲の阿国の墓。
果たして、今の歌舞伎役者の中で、
どれだけの人がこの墓を訪れたであろうか。
僕は一応、浄瑠璃を齧り、三味線を愛するものとして、
歌舞伎の始祖の眠る場所を素通りすることはできず、
拝ませていただく。
さらに西へ進むと、稲佐の浜に出る。
おそらくこの日本海を渡って、
出雲の支配層がやってきたのだろうと、
2,000年前の情景に思いをめぐらす。
浜を少し南下し、いわゆる「神迎えの道」を通って、
大社へと戻る。
現在、15時過ぎ。
宍道湖の夕景を観るために、
急いで駅に戻らねば。