「方丈記」(鴨 長明)

あの震災から2年。

あの日と、そしてその後のあれこれについては、
僕は何も語らないことにしている。

去年の秋、四国の山奥を車で走っていたとき、
FMラジオで養老孟司先生が、
こんなことを語っているのを聴いた。

「あらためて、『方丈記』を読んでみると、
そこには震災のこととかが、全部書いてある。
こういう古典を、現代人は忘れちゃいけないね。」

とかまぁ、こんな内容だったはずだ。

僕も一応、日本語日本文学科専攻なので、
「方丈記」ぐらいは、何度も読んでいる。

だから、養老先生の話を聞いても、「あぁ、あれね。」ぐらいしか、
その時は感じなかった。
(というよりも、山道のワインディングが激しくて、それどころではなかった!)

そして、震災2年後の今日、あらためて「方丈記」のページをめくってみた。

なぜか養老先生のその言葉を覚えていたのと、
どうせ読み直すならば、
この3.11というタイミング以外ないだろう、と思ったからである。

前半は、火事・地震・飢饉・遷都・台風・・・、
大きな力の前に、ヒトがいかに無力であるかが、語られる。

そして後半は、世捨て人となった自らの境遇を、
淡々と語り、あっけなく筆がおかれている。

今回読み返してみて、あらためて思ったのだが、
鴨長明という人は、憎めない。

なぜならば、俗世に「未練タラタラ」だからである。

確かに表向きは、世は無常だの、俗世は過ごしにくい、などと書いてはいるが、
その筆の奥に、そうは言っても世の中を捨てきれない感情(いや、愛情)は、
容易に看て取れる。

だが、それを隠そうとしないのが、長明の魅力であって、
それを無理に隠そうとして、「ヒネクレモノ」になったのが、兼好法師である。

ただ、これも、浮世に「未練タラタラ」なukiyobanare的解釈であって、
他の人が「方丈記」を読んでどう感じるのかは、知らない。
というか、興味がない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です